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【雑記】将来の不安と私が小説を書くべき理由の一つ;20200514



 頭の中にもやもやとした感情がある。何か解決しなければいけないという焦燥感、そして何をやったって無駄だと思ってしまう虚無感が、まるで二つの絵具をぐちゅぐちゅと混ぜ合わせたみたいに醜い色をして脳の四方を覆っている。そして何よりも気持ち悪いのは、自分の頭の中の事なのに私はそれが何なのかうまく言語化できないのだ。それは一体どういう事なのか、一体何が起因しているのか、私は一体何を書こうとしているのだろうか?


 数十分思案し、私はやがて、自分が将来について考えていた事に気付いた。その思索は、最初あっちこっちをふらふらと彷徨い、断片的な意識を集めてはちまりちまりと分類する、先の見えない作業だった。だがそれをしているうちに、唐突に光明が見えた。思考の欠片を集めていびつな形に組み合わせ、私はその時初めて、自分が何をしていたのか、何を考えていたのかを理解した……未だはっきりとは分からないが。


 観念的な話はここまでにしよう。私は、自分自身の将来について考えていた。それは、この先どうなるのだろうという不安によるものだった。自分は今、宙ぶらりんな状態にいて、自分の活動に明確な指針が無い状態にある。だからそういう事を今回は順を追って書いていければなと思う。


 私の人生における活動とは一体何なのだろうか。その一つに仕事がある。前の記事でも書いたが、私はとあるサイト運営の手伝いをする仕事に就いている。一か月前に色々失敗して潰れたせいか、最近はあまり高度な仕事を任されなくなった気がする。どうやらついに見限られたのかもしれない。はは……

 そもそもどうして「高度な仕事を任されなくなった」→「見限られた」という思考回路に至っているのだろうか。つまり例えば、「もっと楽に稼げるようになった」とか「新しく何か勉強するいい機会だ」とか考えつかず、いの一番に他人の評価について考えをめぐらしたのだろう。自分はどうしてそんな事を考えついてしまうのだろう。

 それは、私の価値観の中でトップにあるのが、承認欲求というものであるからだ。何故そんなものが私の頭の中に巣食ってしまったのかは分からないけど、とにかくこの厄介な獣に、私の人生は常に振り回されてきた。お父さんお母さんに良い子だと思われたい、動画サイトでもっと視聴率を上げたい、友達に有能な人間だと思われたい……私の人生というのはとどのつまり、そういう欲求に振り回されていただけの人生だったように思える。

 そして今も、上司に認められたいという欲望が、私の中にある。それの善悪とかの評価については一旦置いといて、それを原動力に働いていく事が、つまり業績を上げて上司に認められたいという一心で働く事が、本当に人生に幸福をもたらすのかについて考える――答えはNOだ。何故なら、それは頼りすぎているからだ。

 自分の生きる指針を他人に全て委ねる事は、とても危険な事なのだ。何故なら、その上司は実は他人に全く興味のない人間かもしれないし、あるいは他人を貶める事で自分の欲望を満たすタイプの人間かもしれないからだ(当然、彼/彼女はそれをひたすらに隠しているだろう)。そんな人間に自分の価値観全てをゆだねたら、以後その欲望は一生満たされる事が無い。少なくとも仕事では一生幸福になる事はない。その人生はとてもきついものだし、そういうリスクがあるのに他人に身をゆだねるのはとても危ない事だ。だから、他人に価値観のバロメーターを預けてはいけないのである。

 では一体どうすればいいのだろうか。私はどういう意欲で仕事に取り掛かればいいのだろう? 金……だけでは働けない。もっと何か、自分の価値観にそぐう何かを見つけなければいけないのである。それを見つけなければ、とてもじゃないが仕事を続けていく事はできない。

 これからどうなるんだろう、と思う。このまま仕事を続けていて、私は一体どこに辿り着けるのだろうかと思うのだ。今やっている事は完全に事務仕事だし、それでスキルが身につくわけがない。私は社会で生きる上の武器を身に付けなければいけない。具体的には、今はGoogleアナリティクス触りたいなとか考えてます、、、それの経験さえあれば、今後転職する時に武器になると思うから。

今思うと、大学でやってきたことは全て無駄だったように思える。いや、何かを学ぶ事、その方法論を自分なりに固めていくという意味では、大学の勉強は意味がある。だが、それらはあまりにも専門的すぎる。社会で役に立つ知識というのは、もっと全般的な事のように思っているのだが、この話は長くなってしまうのでまた今度、、、


 承認欲求には今も現在進行形で振り回されている。最近は少しだけ、創作をやれている。いくつか創作物を並行してちょこちょこと進めているのだが、その一つを終わらせたのでニコニコ動画にUPした。普通にお下劣な奴です(笑)まあ内容はともかくとして、作っている間私は、こういったものを作るという事が一体何なのか、何をもたらすのかという事を考えていた。

 動画製作物書きイラスト何でもそうだが、作っている間は苦しい。楽しみが無いといえば嘘になるが、それでもとにかく苦しいという事は確かだ。だがその一連の作業の終わり終わりに、達成感がある。ここまでやれたぞ、という自尊心と満足感が形成される。

 それこそが創作の醍醐味の一つであるのだが、また別の要因も関わり合ってくる。それは承認欲求だ。

 自分の作品を見てほしいという感情、それは創作の原動力にもなるのだが、同時にそれは自分を蝕む枷となり、猛毒となる。「見てもらうにはどうしたらいいのだろう」「もっと工夫しよう」とそれによって上昇志向に至るなら良いのだが、意識が悪い方向へと向いてしまう事もある。すなわち承認欲求だけが膨らむと、「みんなに見てもらえない自分は無価値だ」などというネガティブな感情が生まれだしてしまうのだ。これこそが承認欲求の厄介な所である。良い事にもはたらくし、悪い事にもはたらく。

 今回の動画はあまり承認欲求が無かった。詳しくはまた別の機会に話すが、とにかくそれは人に見てもらうために作ったものではなかった。むしろ自分が叫びたいためだけに作った、いわば自慰作品である。だから、再生数が全然伸びない事(これでも昔は3桁から4桁の数字を稼いでいた)にもあまりネガティブな感情は抱かないし、投稿したらもう自分の元からそれが離れてしまったような、何と言えばいいのだろう、離別感? そんな言葉無いかもしれないけどちょっと悲しい気分にもなっていた。まあとにかく、その動画に関しては再生数はどうでもいいのである。

 動画の中でも扱ったテーマがある。それはつまり自分が悩んでいる事なのだが、自分は一体何のために生きているのだろうと、最近ずっと思っているのである。週に3回しか仕事をせず、休みの日はゲームばかりして、時折思い出したかのように何かをちょこちょこと作る、そんな生活である。コロナもあるし外には全然出ないし、あとは友達とネットで会話するくらいしかない(つまり、実際には会えない)。こうして生きていると、自分は社会の中でものすごく孤立した位置に立っているのではと思う。

 一体私は何がしたかったのだろう? 小説家になりたい、というのが私の夢だった。だが、それは今もうすでに無くなってしまった(無理だ、と思ってしまったからだ)。文筆活動で仕事をしていきたい、というのも私の夢だった。だが今の職場ではとてもじゃないがそういうチャンスは無さそうだった(仕事の中でまた自分がやりたい事を見つけていければと思っている)。あとは何だろう、同人活動とか、性行為とか、、、

 夢は失われてしまった。今の私には最早、何のために生きているのか、人生をどう仕立て上げていきたいのかという気持ちが、一時的に失われてしまったように思える。二つだけ、失われてないものがある。一つは承認欲求だ。誰かに愛されたい、誰かに認めてほしい、役に立ちたい、そういう感情は私の場合全て承認欲求に帰結する。こればかりは切っても切り離せない、がん細胞のようなものである。

 もう一つは昔の記事で書いた「未来を良くしたい」という思い。つまり自分の将来を今よりも少しだけ良い状態にしたいという、生きる希望である。この灯はまだ消えてはいない。自分が何のために生きているのか、何のために生きていくべきなのかと考えた時、私は「未来」をもっと良くしたいと思った。それは自分の人生だけではない、他人の人生、社会、地球全体の未来を、1ミリでも良くしていきたい、アドラー心理学でいうところの「共同体意識」である。

 しかしこの考えには重要な定義が欠けている。「良い未来」とは一体どんなものであろうか? 自分に絞って考えた時、「良い未来」とは何か? と問うと答えられなくなってしまうのである。私にはそういう大切なビジョンを思い描く事がすっぽり抜け落ちていた。

 良い未来とは一体何だろう? 自分が良い状態とは? 私は私の一部である承認欲求について考えた。これをどうするかが今後の課題である。すなわち、良い未来を目指すにはこいつをどう運用していくか?

 前述したように、承認欲求にはいい面も悪い面もある。原動力になる事もあれば毒になる事もあり得る。そういった時、例えば承認欲求を失くしていく事が良い未来を目指すために必要なのか、あるいはうまく広げていく事が大切なのか、それを今後は考えなければならない。

 今の私に、将来は無い。告白しよう。私はただ今を生きている。過去の事も考えず、未来の事も考えず、ただ口を開いて歩いているのみである。しかし私は、将来を手に入れたい。昔のように未来に希望を持って生きていきたいと考えている。では、そうするためにはどうすればいいのだろうか? 

 ただ一つ分かっている事は、私は今後一生、こうやって自分の心のテーマに向き合っていかなければならないという事である。自分の精神や感情をつぶさに省察し、自分自身が一体どうなりたいのか、何をしたいのかを考え続けなければいけないと思う、一生。私は心の問題に一生向き合っていかねばならないのだと思う。

 もしかしたら、そのための小説だったのかもしれない。つまり私が真に小説を書く理由として、自分の心を物語という形式に翻訳し、自分自身の問題やその解決策を明らかにしたかったのではないだろうか。そう考えると、私は小説を書くという行為を考え直さねばならない。今まではただ面白いものを作りたい、人を楽しませたいという承認欲求を主に原動力とした書き方をしていた。だが私の場合、それでは駄目なのだ! 私はもっと、自分自身と向き合い、自分のためだけに小説を書くべきなのだ。そこに賞レースとか他人からの評価は関係ない。ただ自分のためだけに、小説を書く。それは自慰行為というよりはむしろ修行に近い。自分の心を出来るだけ理解する事こそが、私の人生における命題の一つなのかもしれない。

 ……将来の不安は尽きない。今もそれは変わらないが、この文章を書いた事によって少しだけ未来を良くできたような気がする。ここまで読んでくれてありがとうございます。貴方の人生に幸運を、貴方の自我に祝福を。


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