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毒親と私 -わたしはわたし-

私は一児の父です。

親となった今でも考えてしまうことがある。
「親とはなんだろう」
「父とはなんだろう」
「親が子にできることはなんだろう」

なぜ、こんなことを考えてしまうのか。
その理由はきっと
誰も教えてくれないからなんだと思う。

家庭でも、学校でも、社会でも、
親のするべきこと、子供の育て方、教育費にかかる総額など...

親に求められる知識、子供を育てる手段について誰も教えてくれないから、親になった今でも子育てや親の役割について考えてしまうのかもしれない。

どうやって子供を育てるのか。どうやって親になるのか。
きっと多くの人は自分の親の子育てを模倣しているのではないか。
なぜなら、親から受けた子育てが実体験として心と身体に染み付いているから。

親から与えられたように、自分の子供にも与える。

それは愛情であり、教育であり、思考であり、お金であり、倫理であり、常識であり、暴力であり、干渉であり、それら様々。

私は多くの期待と共に多くの束縛を親から与えられることになりました。

比べられること

私が幼かった頃、お正月は決まって父の生家に一族が集まった。

祖父母を囲み、皆それぞれ話に花を咲かせている。
幼い私には彼らが何を話し、何に笑っているのかあまり理解できなかったけど。
それでも、私がよく覚えていることがある。

それは比べられることです。

私には同い年の従兄弟がいます。
毎年、この従兄弟と背比べさせられた。

幼かった私にはこの比べるということの意味が理解できず、何の意味があるのか疑問を感じていました。

もしかすると、私が誰かと比べられることが嫌いなのはこのときから始まったのかもしれません。

親から認めてもらえない

中学3年生になると高校受験があります。
当時の私の学力は、地元の進学校に合格できるかどうかの境界でした。

進学校は男子校で、私の苦手な学生の多くが受験をすることを知っていた。
「嫌いな奴と3年間も一緒の高校に通いたくない」
それが正直な気持ちでした。

だから、地元の進学校ではなく隣町の共学の公立高校(偏差値的には一つ下)を受験することを両親に伝えた。

高校受験は前期試験と後期試験に分かれていました。
前期試験は内申書と面接だけの試験のことで、後期試験は学科試験を行うものでした。

私は前期試験で隣町の公立高校に合格することができた。
学科試験こそなかったものの、学校での授業と塾での勉強、試験勉強も十分にしてきました。

合格の知らせを一番最初に母にしたかった。
学費の安い公立高校に合格することを母は希望していたから。
きっと喜んでくれるに違いない。そう思っていました。

でも、母の口から出た言葉は私の期待しているものではなかった。
「合格しちゃったの...」

喜んでくれることも、褒めてくれることもありませんでした。
なぜ、母がこのような言葉を口にしたのか私には理解できなかった。

認めてもらえなかった。
その虚無感だけが心に残ることとなったのです。

大人になった今だから分かること

あの言葉を言われてから20年近くが経とうとしている。

「そんな昔のことをまだ引きずっているのか。情けない。」
そう思われる方もいるかもしれません。実際、私もそう思います。

でもね、幼い頃の傷ついた経験や記憶はどれだけ年数が経っても消えないことがあると思う。
それは時としてトラウマという形で残ることもあるはずです。

大人になった今だから、あのときの母の気持ちを慮ることができます。

あれもきっと比べていた
私と同級生を。私の母と同級生の母を。
私と同級生。どちらが偏差値の高い高校に入学できるのかを意識してか、または無意識のうちに比べていたのです。

偏差値の低い高校に合格してしまった私が、同級生よりも劣っていると感じたのでしょう。
「あなただって、頑張れば上に行けたはずなのに...」
そう感じてしまったのでしょう。

この親の気持ち。
大人になった今だからこそ想像できます。
しかし、だからといって「全くその通りだよね。私が悪かったよね」なんて、微塵にも思いません。

なぜなら、今でも20年前のあの言葉が心から消えていないから...

認めることは受け入れること

認めるという言葉には、受け入れるという意味合いが含まれているそうです。

私は、あなたを受けれる。

子供は親に受け入れてもらいたい。
自分が頑張ったことを、その成果を、受け入れてもらいたい。
無条件で認めて欲しい。

あのときの私が欲しかった言葉は
「よく頑張ったね。一生懸命勉強してきたもんね。」

その一言で私は自分を肯定することができたはず。
自尊心を保つことができたはず。
20年も続く両親との葛藤のきっかけとして記憶に残ることは無かったはず。

わたしはわたし。あなたはあなた。

親、兄弟、姉妹、友達、先輩、後輩、先生、上司、部下、ネットの向こうの誰か...

それらはすべて、他人(あなた)
わたし ではない 他人(あなた)

だから、違くて当たり前。
自分よりできる人だっているし、できない人だっている。
比べて優越感に浸ることに劣等感に苛まれることに、意味はないはず。

ーわたしはわたし。あなたはあなた。

比べる必要なんてない。
足りない部分は補って、足りてる部分は分け合って。
違うところに目くじら立てずに認めてあげる。
認められないならせめて、そっと距離をとる。
攻撃することなんて、嘲笑うことなんて、本当は必要ないはず。

私は自分の子供を認めてあげたい。
いっぱいいっぱい受けれてあげたい。

あなたが、あなたの歩む道を自信を持って踏み出せるように。

いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。