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今日も世界は狂ってる

搾取をなくしたい。
その思いから始めたエシカルな暮らし。

そもそもなんでそこまで弱者を救いたいと考えるのか。
今までも少し書いてきましたが、今日はわたしが実際に被害に遭った性暴力について書いていきます。


初めに、『許す』なんて言葉が思い浮かばないくらい今も腹立たしいし気持ち悪い。
けど、わたしが一番自分のしたことの重さと向き合ってほしいのは、わたしの必死の訴えを流し、わたしが親戚の集まりに行けなくなったこともわたしのせいにし、すべて自分のことだけを考え続けている母親です。
母がわたしの心の傷をえぐったから。


中学3年生の頃、幼馴染5家族でオーストラリアに旅行に行きました。
中3と言えば思春期真っ只中だし、現に幼馴染のうちの一人はお父さんのことが嫌いで、すんごい避けてました。
けれどわたしは、いちいち絡んできて『めんどくせーなー』くらいには思ってたけど、避けるまで嫌いではなくて、父のお皿から分けてもらった料理も食べられるし、洗濯もいっしょでいいし、父が入ったあとのお風呂も入れるくらいで、そこまで思春期特有の親嫌いはありませんでした。

旅行1日目、夜ご飯はステーキ。
大きなテーブルを大人数で囲み、離れた席にいるのになぜかわたしにステーキを一切れくれた父。
『なぜこの距離感で渡す???』と多分思ったけど、まあ思春期拗らせてなかったし、もらって普通に食べました。
ホテルに帰り、家族ごとに部屋はバラバラ。
だけど幼馴染の中でも一人、特別仲のいい子(以降、Aちゃん)がいて、親たちが宴会している間にわたしたち家族の部屋に来て遊んで、そのまま部屋でいっしょに寝ることにしました。

夜、いっしょのベッドでAちゃんと寝ていたとき、ふと何かに気付いて起きました。
そのとき、父親がわたしの服を背中側から捲り、ブラのホックを外していました。
何が起きているのか分からなかった。とにかく怖かった。
でも逃げるしかない。
バスルームに逃げ込んで、多分朝になるまでずっとそこにいました。

旅行の間はいろんなエリアを巡ったから泊まる場所も一日おきに変わったので、子供だけの部屋があったりして、多分そこでは安心して眠れていたんだと思います。

けれど、旅行から戻れば元の生活。
父親とも当然ひとつ屋根の下。
当時、妹と同じ部屋だったんですが、なぜか妹はベッドがあるのに部屋で眠らず(仲が悪いわけではなかったのに……)、わたし一人で寝ていました。
旅行から帰ったあとは、夜寝るのが本当に怖くて、でも扉に鍵はないし、だから扉の前に棚をずらして置いたり、椅子を置いたり、ストーブを置いたりして、とにかく開かないように必死でガード。
朝も早く起きてさっさと高校に行き、会わないように。
洗濯物はいっしょに洗ってほしくないし、父が洗濯担当だったので触られたくないから、自分のものだけ部屋に溜めて、自分で洗ってました。
お風呂も父が入ったあとは嫌だから、そのあと母か妹のどちらかが入るのを待って、そのあとに入ってました。
それでも気持ち悪いから、湯船には浸からずシャワーだけ。
体を洗うタオルも気持ち悪いから使えません。
家の中でも会いたくないから、父がいない間にやることをできるだけ早く済ませて、父がいる間は自分の部屋に引きこもる。
だからトイレも容易に行けなくて、膀胱炎のような状態にも頻繁になってました。

オーストラリアであったことを当時一番仲がよかった友達に話したら、そのときは信じて、泣いてるわたしを慰めてくれたのに、あとになって『本当の話なの?』ってわたしが嘘ついてるんじゃないかと疑ってきました。
Aちゃんではない、スクールカースト上位の幼馴染からは『あいつなんで急にお父さん避けるようになったんだろ』と言われてました。

父親を露骨に避ける日々は、終わることなく続きます。
高2のある日、母親から『なんでそんなにパパを避けるわけ?』と怒られました。
そこでわたしは、オーストラリアであったことを泣きながら話しました。
それを聞いた母が言ったのは、『じゃあ謝ればいいわけ?』のたった一言。
なんでだろう。なんで心配してくれないんだろう。つらかったねと寄り添ってくれないんだろう。
今はただ、寄り添ってくれるだけでいいのに。
絶望しました。
もっと悲しくなったわたしは、号泣しながら『それでいいよ!』と怒鳴って、部屋に閉じこもって泣きました。

今日まで一度も謝られていません。

実家は大学1年の頃に3.11の混乱に乗じて、出ました。
それ以前も友達の家や彼氏の家に泊まったりして、帰っていませんでしたが、3.11以来、帰ってません。

父と母に会いたくないから、大好きなおじいちゃんが亡くなったときも、死に目に会えませんでした。
死ぬ前に病院に行けませんでした。

おじいちゃんが亡くなって数年後に、久しぶりに親戚の家へ行きました。
そのとき、母が来るタイミングと被ってしまい、数年ぶりに会いました。
もちろん謝られませんでした。
親との関係を断ち切りたかったから、大学は中退していました。
学費に充てる分だったお金が余ってるからって、通帳を渡され、偉そうに『おおまけにまけてあげるよ』と言われました(2年でやめたから、あと2年分の学費があるはずなのに、なぜか30万くらいしかなかった)。
悪いとも思っていない態度に虚しい気持ちになったけど、母親はいつも自分が一番で、気に入らないとすぐ怒って、小さい頃からずっと怒られ続けてきて、だから怒られることに強い恐怖心を抱いていたため、言い返せませんでした。

父にも母にも多分、7,8年くらいは会ってません。
結婚することも言いませんでした。
事後報告もしませんでした。
母親にあの偉そうな態度で何か言われることが嫌だからです。
でも、おばあちゃんには言いたかった。
だって、孫5人がまだ誰も結婚してないから。
でもおばあちゃんは佐賀に住んでいるし、横浜に住んでいるわたしが家に行っても、感染が怖いだろうし迷惑な気がして。
だから、まずは同居しているおじさん(母の兄)に連絡して、様子を聞いてみようと思いました。
それで、おじさんに話の流れで結婚することを言いました。
すると返ってきたのは、『お母さんには言ったのか?こういうのは順番間違えると尾を引くぞ。先手先手でな』。
どうせそういうこと言ってくるだろうと思っていたのに、伝えてしまったわたしが馬鹿だったのか。
でもせめて、一言目は『おめでとう』がよかったっていうのは、わたしのわがままなんだろうか。
このLINEで、今まで親戚の雰囲気を悪くしないようにと、オーストラリアで起こったことを一人で抱え込んできたことに心底馬鹿らしくなって、すべてを話しました。
それでも、『自分にとっては妹だし、お母さんには言ってほしいけど無理か』とか、『相手にはこのことあんまり言うなよ』とか言われました。
なんで相手に言っちゃいけないんだろう。わたしが悪いわけ?違うよね?辛くて、未だに引きずってる辛いことを一番好きな人に言えないなんて、わたしには無理。てゆうか、母の発言も言ったのに、それでもまだわたしに『母に伝えろ』と言えるのか?
ちなみに、夫には早々に伝えています。


 あのとき、父は何をしようとしていたのか。
母と間違えたのかと思ったりしたけど、中3のわたしと母なんて全然違うし、第一友達と寝ていたから間違うわけがないと思う。
もしあのとき起きなかったらどうなっていたのか。
怖かった。


わたしはほかにも、小3の頃、オートロックのマンションに住んでいたのに、後をつけてきていた男がマンションの中まで入ってきて、パンツの中に手を入れられたり、
9月まで勤めていた会社で上司から言い寄られて、それをもっと上の立場の人に報告したら、同僚から『そんなに大事にしなくたって』と冷めたように言われたりと、
いろんな性暴力の被害を受けてきた。
する男もキモいし、母や同僚のようになぜか軽視する女もキモい。

性暴力は行為を直接行った者からの精神的ダメージだけでなく、母や同僚のような者から受ける精神的ダメージも重いんです。つらいんです。
なんで、被害を受けた側がさらに追い打ちをかけられなきゃいけないんでしょうか。
行為を行う人間も、そんなことを普通に言えてしまう人間も、その思考がわたしには分からない。


過去を悔やんでも仕方ないけど、でも。。
あのとき、すぐに通報できたらよかったのか。
もしくは日本に帰ってから、児童相談所とかに連絡すればよかったのか。
やさしかったおじいちゃんが生きているときに相談すればよかったのか。
もっと大事(おおごと)にできたらよかったのか。


性暴力やいじめに遭って、母親にいつも怒られてきて、わたしはメンタルがすごく弱いです。
怒られるんじゃないか、いじめられるんじゃないかと大人になってもまだ考えてしまうんです。
だから、一気にいろんなことを言われると、何にも理解できなくなってパニックになってしまいます。

性暴力もいじめも、何でもかんでも怒鳴りつける育て方も、そのときだけでなく、その人のこれからの人生の自由までをも奪う行為です。それは人権侵害です。
人権侵害者たちは、誰かを苦しめたことを忘れてのうのうと生きている。
わたしはこんな世界は狂っていると思う。

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