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コアラ日和


 僕が社会人1年目の頃。同い年のガールフレンドと、買ったばかりの中古のカローラに乗って鎌倉までドライブすることになった。

「私、コアラが好きなんだ。なんか、ボーッとしてて、フワフワあったかそうで……」

 環状八号線から第三京浜に右折するときに、運転している僕の横顔に向かって彼女が言った。それまでが、どんな話の流れだったのか、もうすっかり忘れてしまったけれど。

「ああ、そうだね。コアラは安心して近寄れそうだもんね」

 僕は、ハンドルを切りながら、前を見たままで応えた。

「オーストラリアに行くと、直接抱かせてもらえることもあるんだよ」

「へえ。オーストラリアに行ったことあるの?」

「うん、2年前の確か今頃。日本が春で、向こうは秋っていう時期だったから」

 ここで僕は、少しだけ自分が物知りだってことをアピールしたくなったのかも知れない。

「コアラって、哺乳類ならクマみたいなものなのかなあ?本当のクマは怖そうだけど……」

「哺乳類ならって、哺乳類じゃないの? なに類?」

「いや、哺乳類なんだけど、その中の有袋類っていうのだけが、オーストラリアで進化したんだよ」

「ふうん?」

「多分、有袋類のご祖先だけがオーストラリアの辺りに棲んでるときに、今のユーラシア大陸から分かれちゃったから、有袋類だけがオーストラリアに取り残されたんだ。で、多分ネズミみたいな姿だったそのご先祖が、あそこの砂漠とか草原にそれぞれ適応していった結果、今のようないろんな動物になったってわけなんだ」

「それで、コアラはクマの仲間ってことなの?」

「いや、直接的にクマに近い仲間ってわけじゃなくて、クマとは系統がまったく違うんだけど、進化の過程で適応した環境が似ているから、見かけが何となく似ている動物になっちゃったってことなんだ」

「じゃあ、同じ環境のところに置いとけば、全然違う動物でも似てくるってこと?」

「いやあ、置いとけばっていっても、何百万年も集団を隔離しておかないと、突然変異が集団内で定着しないし……。まあ、実験で確かめられる話じゃないなあ」

「じゃあ、本当はどうだか分かんないんだ?」

 僕は、自分が学んできた自然科学が否定されたような気がして、少しだけムキになって続けた。

「いやいや、そうじゃなくて。進化の過程で、棲み分けの環境に応じて一つの種が複数の種に分化していくことを『適応放散』っていうんだけど、ユーラシア大陸での哺乳類の適応放散と、オーストラリアでの有袋類の適応放散は、本当によく対応してるんだよ。つまり、草原に適応すれば速く走れる足になるし、肉食ならば鋭い歯を持つようになる、ということなんだ。有袋類は、哺乳類と同じような棲み分けパターンに基づいて適応放散した結果、有袋類だけで哺乳類全体と同じくらい多様な生物に分化していったっていうことなんだ。逆に、系統が違うのに、同じ環境に適応した結果、似た生物になる進化を『適応集中』というんだ」

「良くわかんないけど、例えば?」

「分かりやすいのは、鳥とコウモリ。飛ぶという機能が共通しているせいで、見かけも何となく似ている。これは鳥類と哺乳類の例だけど、哺乳類と有袋類の関係では、有袋類のフクロネズミは哺乳類のネズミに対応しているし、フクロオオカミとオオカミの関係もそう。だいたい、有袋類のフクロなんとかっていう名前は、それに似た哺乳類の名前の頭にフクロってつけたものなんだよ。有袋類には大体全部、対応する哺乳類がいるんじゃないかな」

「有袋類には全部対応……」

 彼女が感心したような顔をしたので、ちょっとだけ安心して、僕は考えていることをそのまま言葉にしていた。

「森と草原、肉食と草食、夜行性と昼行性、というふうに、地球環境における基本的な棲み分けパターンには、普遍的な何かがあるってことかも知れないなあ。何か話しているうちに、結構すごいこと気付いたような気がするなあ。これって、恐竜が絶滅しなければ、哺乳類なみに適応放散してたはずだってことも言えるかもしれない。そう言えば、翼竜はコウモリよりも飛行能力がありそうだし…巨視的に見たら、地球生物の外観の多様性には限界があるってことになるのかなあ……。」

 僕は、しゃべりながら次第に一人の世界に沈潜してしまっていた。

 その日は土曜日で、第三京浜は渋滞していた。


「……ルーは?」

 僕は、彼女の言葉の最初のほうを聞き洩らした。

「……え? 今、何て言ったの?」

「カンガルーは?」

「え、カンガルー? ああ、カンガルーに対応する哺乳類ってこと?」

「だって、全部対応してるんでしょ?」

「うーん、カンガルーねえ……」

「うん?」

「うーん……ないかも……」

「ウソつき!」

 彼女は、どういうわけか、急に半泣きになって、僕をなじった。

「……そこは、ほらオーストラリアの特殊性で……大型肉食獣がいないし……」

「結局、全部ウソなんでしょ?」

「いや、そうじゃなくて……」

 僕は言葉に詰まってしまった。そして、その場の雰囲気を変えたい一心で、思いつきを口にした。

「あ、そうだ。カンガルーに対応するのはスナフキンだよ!」

「……それを言うならスニフでしょ。バカ!」

「…………」

「…………」

 鎌倉がとても遠く感じられたドライブ。

 若かりし日の、ほろ苦い思い出。

(おわり)



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