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ファンになる心境をリストラーズで考える

タイトルだけでは 説明が足りない。
リストラーズの動画に どんな心境のときに出会ったのか。
ファンの立場から考えてみたい。

「どの動画に」ではなく、彼らの動画に出会う前の数週間をどんな気持ちで過ごしていたのか どういうキッカケがあってリストラーズに出会ったのかを
訊いてみたくなることがある。

以前 ブログやXで綴られているのをたまたま拝見したことはあるが、直接
どなたかに尋ねてみたことはもちろんない。
根掘り葉掘りする話題でもないから 今後もあえて訊くことはないだろう。
 
 
ここからは 歌そのものではなく 踊りの話でもない。
強いて言えば、シャーベットグリーンにドット柄のカーテンの話になる。
 
 
さて、筆者の心境で言えば マイナスのときだった。

 
世の中が音もたてずに崩壊し、社会全体が どんどん変な方向へ突き進んで
いるように見えて仕方なかった。
怖くて、でもどうすればいいのかも分からずにいた。
 
ある意味、癒しのようなものを求めていたのだろうと思う。
明るいもの、希望があるもの、魔を跳ねのけ、まっすぐ伸びるものを求めていた、たぶん。
寄らば大樹ではなく、イチからでもやり直ししようと思える力強いものを
探していた。
 
人には最初から備わっているという「自分の中にあるものを芽吹かせたい」という欲求。
だが、どこかで抑えられ 生きやすいように自分で自分を たわめてしまう。
 
リストラーズは 「もとに戻してもいいよ」「こんな生き方もあるよ」と
歌ってくれている気がする。

それに勇気づけられる。
だから沼にハマるほど魅かれたのだ、たぶん。

 
メンバーご本人たちに訊ける機会はないだろうから 答えのほうも想像の範囲になる。「好きでやっていたら こうなった」くらいの軽さで いなされるかもしれない。
 
だが 受け取りかたは ファンの自由。
筆者は カーテンの柄やハシゴに注目したいこともある。
ということで もう少しだけ 片腹痛しな文脈で続く。
 
 
日本だけでなく、世界も今 苦しんでいるように見える。

これまで信じていても良かったこと、動かないだろうと安心していたものが 内部から形を変え いつの間にか 別のものに置き換わっている。
 
福沢諭吉は “economy”という英語を翻訳する際、「経世済民(けいせいさいみん)」という言葉を編み出した。

経済の語源ではあるが、現在の「経済」とはまったく違うもの。
国を治めて 民を助けるという意味だ。世の中が平和で 暮らしがうまく
いっている様子をいう。
 
こう考えると、政治も経済も 何ひとつ現在に当てはまっていないことに
気づく。
 
ただ それを批判したいのでなく、この様子を知るにつけ 疲れてしまい
へこたれかけていた。
そんなときに 彼らリストラーズに出会った。
 
もちろん メンバーもこの社会のなかで「しがないサラリーマン」に勤しんでいらっしゃるわけだが 彼らには別の顔がある。
 
自分のなかにある才能をフルに使って 努力を努力と感じずに進んでいける
軛(くびき)から放たれた時間。
社会にほんの少し 健康的で明るい時間を提供しようとする別の空間。
 
会社のなかで歯車になる一方、もうひとつの世界では解放される。
ふたつの世界を跨いで 重心を移し変えて ステップを踏む。
 
重くない、軽くない。本気でやれる、遊びじゃない。
 
あんなにも自由を愛する魂のようなのに、大樹によりかかる自分を受け入れ 赦している。
その上で 自分のチカラによって切り拓いていこうとする 独立独歩の精神も具現化されているように感じる。
 
自分を少し逃してあげる場所をつくる。
追い込みすぎて 煮詰まる前に。

でも 考えないままではいけない。
適当に自分を誤魔化しても いいあしたは来ない。
次の世代に重荷を負わせるわけにもいかないのだから。
 
リストラーズは 励ましてくださる。
メンバー全員の広い額が輝いて見えるのは 伊達じゃあない。
ファンだけでなく 見る人の心に明るい光線を送るため。

・・・・・・なーんて言ったら、叱られないかとまた心配が よぎっている。
 以上、シャーベットグリーン色のカーテンの考察でした。

 
 
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