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「友達だと思っていたのに」について考えた話。

1.友達って何ですか。


「友達だと思っていたのに」と言われたこと、言ったこと、聞いたことはありますか。

高校で教員として働く中で、
この言葉をよく耳にします。

「友達だと思っていたのに、向こうはそうじゃなかったらしい。」

そんな相談や愚痴を聞くたびに、なんだかモヤモヤするのです。

そもそも、「友達」って何なのでしょう。
何を基準に「友達」だと思ったのでしょう。
同級生・知り合い・顔見知り・友達の境目は
何処なのでしょう。


2.「友達だと思っていたのに」と言われた日。


中学生のころの話です。

「友達だと思っていたのになんでそんなこと言うの!」
と言われ、戸惑ったことがあります。

小学生でいじめを受けていた私は、中学生になっても相変わらず一人で、クラスで浮いた存在でした。(もはや一人が気楽だったのです)

そんな中、向けられた
「友達だと思っていたのに」の言葉。

私は、言葉の意味がわかりませんでした。
なぜなら、私はその子のことを友達だと思ったことがなかったからです。


しかし、その言葉を聞いた途端、周囲の人の目が変わり、私の心に雲がかかりました。
その子に対してかかった雲ではなく、

友達をないがしろにしてしまった、
私はひどい奴だ、

と自分を責める気持ちがかけた雲でした。


しかし、大人になった今ふと思い返すと、
やはりよくわからないのです。



あの子は本当に友達だったのでしょうか。


3.関係性に名前を付けるということ。


誰かと仲良くなりたいと感じた子どもたちは「友達になろうよ」と相手に自分の気持ちを伝えるでしょう。

しかし、大人になってしまった私たちは、それぞれの感覚で、友達かそうでないかを定めています。


名前を付けるという行為で、人ははっきりとした契約がほしいのだと思います。
彼氏と彼女、夫と妻、人は人との関係に名前を付けることで、契約を交わしているのではないでしょうか。

彼氏と彼女であれば、
他の異性と出かけてはいけない、

夫と妻であれば、
妻は夫を立てなくてはいけない、など。

契約内容はそれぞれ違うでしょうが、名前を付けることで保たれる秩序があると思うのです。

しかし、「友達」となるとややこしくなるのです。
理由は前に述べたように、それぞれの感覚で友達かそうでないかを定める、つまり、「それぞれの感覚で名前を付ける」からです。


では、感覚が違うとどんな面倒が起こるのでしょうか。



3-1.あなたにとって友達の定義は何ですか。


とりあえず聞き込み調査!


ということで、学校の生徒や、よくお喋りしている事務員さんなどに、

「あなたにとっての友達って何ですか?」

と聞いてみました。

生徒Aくん
「俺の言ったことを聞いて謝るとか、違ってたら反論してくれていいし、逆に俺のことも言ってくれるとか…。」

生徒Bさん
「一緒に遊んだり、基本ずっと一緒にいる、みたいな。」

生徒Cくん
「そう考えてみると、仲いい人はいても、友達はいないかもしれません。」

生徒Dくん
「嫌なことされても許せる人。」

事務員さん
「休みの日まで一緒に過ごすとかしたら友達なんじゃない?」

なるほど。それぞれ似ているようで若干違う。わかるようで、わからない。


友達の中にもレベルがある。

同級生を友達と括って呼ぶこともある。

仲が良くても同級生は同級生。

別に好きじゃなくても一緒にいることはできるよね。


ややこしい。



では次に、論文を読んで、友達との付き合い方について調べてみます。

論文によると、友達との付き合い方にもいくつかパターンがあるのだそうです。

①ありのままの自分を出すことは避け、本当の自分を隠して友達とつきあおうとする自己防衛的なつきあい方

②自分に自信をもち、友達にはありのまま自分を出し、積極的にかかわりあおうとする積極的に関与するつきあい方

③誰とでも仲良しで、いつまでも楽しくつきあおうとするかかわり方
みんなから愛され、好かれることを願い、みんなと同じようにしようとするつきあい方

④いやだなと思っている人とはつきあわないなど、つきあう相手を狭く限定するつきあい方

①に関してはもはや友達なのか怪しいですが、言わんとしていることはわかります。

自分と相手で力の差があったり、なんか怖い、苦手と思っていたり、それでも仲良くしなきゃいけない時、取り繕ったり、誤魔化したり、いい顔をしなければいけないこともありますよね。

しかし、それを友達と呼ぶかは別の話。
口では友達だと言っていても、心ではそう思っていないこともあるのです。


3-2.一方通行の友達。


「友達」という名づけは、お互いに「友達になろう」「そうしよう」のやり取りがなければ成立しません。

つまり、自分が友達だと思っていても、相手はそうじゃない、ということが当たり前に有りうるのです。

そもそも、勝手に関係に名前をつけ、勝手に友達と呼んでいるのだ、と捉えれば、
「友達」と名付けること自体、一方的で身勝手な行為なのではないでしょうか。



4.「友達」からの裏切り。



友達の定義も、友達との付き合い方も人それぞれな中で、友達だと思っていた相手が、実は自分が思っていた友達ではなかったとき、

それは、裏切りなのでしょうか。


4-1.あなたは私を裏切った。


裏切られるとはどういうことなのでしょう。


とりあえず、辞書を引いて言葉の意味を調べてみます。

「裏切られる」はラ行五段活用の動詞「裏切る」の未然形です。そして「裏切る」の意味は主に二つです。

  1. 味方に背いて敵方につく。

  2. 約束・信義・期待などに反する。


「裏切る」の意味を踏まえて、状況を考えてみると理解できなくないなと思います。

自分の知らないところで悪口を言っていたり、簡単に約束を破られたり、期待していたのに大したことなかったり。


しかしそれも、勝手に作り上げた理想像の相手と実際の相手を見て、勝手に幻滅しているだけな気がするのです。


芦田愛菜さんのインタビューで「信じる」ということについて述べているものがあります。
検索すればすぐ出てくるので、各々で調べてもらえばと思うのですが、内容を簡単にまとめると、

「相手の見えなかった部分が見えた時に、それもその人なんだと受け止められる『揺るがない自分がいる』というのが信じるということなのではないか。
しかし、それは難しいから、「信じる」という言葉を口に出して、成功した自分や、理想の人物像にすがりたいんじゃないか。」

というような話をしています。

今回の「友達だと思っていたのに」も同じように思います。
「あなたは私を裏切った」ということは、「あなたは私が思い描いていた理想の友達像と違った」ということと相違ないのではないでしょうか。

そして、「あなたはこんな人だと思っていたのに、そうじゃなかった」ということで、自分が損をしている気持ちになってしまうのです。



5.人間関係を築くということ。

5-1.人間関係におけるメリット・デメリット


前の章で述べた「それぞれの感覚で名前を付ける」をさらに深く考えてみた結果なのですが、
友達関係に限らず、誰かと関係を築くとき、無意識にメリットとデメリットで付き合うか付き合わないかを判断している部分があると思うのです。

そもそも、デメリットを被る相手と仲良くする必要はないじゃないですか。

つまり、人はメリットがあるから人との関係を保つのだと思うのです。


こんなことを言うと、今いる友人たちにも嫌な顔をされそうなのですが。


例えば「一緒にいて楽しい」であれば、楽しいという感覚を得ることができるから一緒にいる。

彼氏と彼女でも、自分だけを愛してほしいから付き合う。付き合ってなければ相手がほかの人と何をしようが何も言えないですからね。

夫婦だって結婚した方が得だ、ということはたくさんあります。逆もしかりで、何もメリットもなければ結婚する必要がないのです。


誰しもがそう考えているとは言いませんが、少なからず、潜在的にそういう思考があるのではと思うのです。


楽しくなければ一緒にいなくていいし、心を病ませるような相手なら、寧ろ離れた方がいい。


しかしそれをしないのは、その他の面でなにかしらメリットがある、もしくは、それ以上のデメリットを被る可能性があるからではないでしょうか。


5-2.友達関係は相互依存。


今まで述べてきたことを1年ぶりに会った友人に話してみました。

「結局依存でしょ。片方は依存していないけど、もう片方は依存していて、その依存先がなくなるのが怖いんだよ」


なるほど、的を得てるな。


今まで関係を続けてきた理由がなにかしらメリットを感じていたからで、そのメリットには、一方的な願望、理想像の押し付けもあって、それが崩れることが怖いから、『友達だと思っていたのに』『裏切られた』という表現で、自分を守ろうとしているのでは。

依存していることが悪いというということではありません。そもそも、友達関係って相互依存の関係なんじゃないかと思うのです。

相互依存とは助け合いの関係性のことです。嫌な言い方をすれば、利用し利用される関係です。

これはすべての人間関係に共通しています。
前に述べたメリット・デメリットです。
メリットがあるから利用し合う。都合がいいから一緒にいる。

この言い方では嫌な感じがしますが、結局は相互依存なのです。


相互依存は、基本的にはそれぞれが自分の軸を持ったうえで自分の足で立ち、必要な時には誰かを頼り、頼られた側は助ける、という関係が成り立っていること。

頼りたくない、助けたくない、と思うならそれは友達ではありませんし、その人と関係性を持つこと自体を拒んでいると言えます。

つまり、デメリットだから拒むのです。


相互依存の関係が成り立つ。
そのうえで、それぞれの「友達の定義」にそれぞれの存在が当てはまったとき、そこに「友達」という関係性が生まれるのではないでしょうか。


終わりに


ここまで、周りの人から聞いた話を参考に、「友達」について私の考えを述べてきましたが、私の考えが正しいわけではなく、それぞれに「友達とは」ということについてコタエがあると思います。


ただ、やはり「友達」についてのコタエを求める中で、論文を読んだり、参考書を買ったりしないといけない私は、本当に人としていろいろ欠けているんだなと感じます。


でもまぁ、こんな屁理屈ばっかりでひねくれぼっちなところが、私らしいと思うし、そんな私が、私は好きなんですけどね。


では、今回はこの辺で。
またどこかで。


参考文献

落合 良行、佐藤 有耕「青年期における友達とのつきあい方の発達的変化」(1996)

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