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内田樹・白井聡 『 新しい戦前 』



本書の概要

"知の巨人"と"気鋭の政治学者"が、この国と世界の行く末を読み解くとともに、混迷の時代に取るべき策を徹底検証する。

ダイジェスト

● 貧しい空間と豊かな空間

白井:私はこれまで、ネオリベ化が人間の主体性の次元、すなわち物の観方、感じ方、価値観といった人間の《魂》の次元へと浸透し、人間存在全体を資本主義の原理が「包摂」(マルクス)するようになることに注目してきました。
いま気づかされていることは、ネオリベ化が発生した重要な次元として、「空間」を挙げなければいけない、ということです。人間の精神も具体的な空間によって形成されます。(中略)少し注意して街を歩いてみるだけでわかると思うのですが、入場料なり何か買うなりといったかたちでお金を支払うことなく寛げる空間は、この四半世紀の間に激減しました。あらゆる空間が「稼げる空間」へとつくり変えられてきたのです。当然、支払い能力のない者は、そこから排除されます。
神宮外苑の再開発に代表される都市の「大規模再開発」は、その地に積み重なってきた歴史の地層を洗い流し、空間の商品価値を能う限り高めようとする企てにほかなりません。もっとも、そんなことをやってしまえば、どこもかしこも平板で平凡きわまる金太郎飴式の同じような商業空間が広がることになり、長期的には商品価値も失われるだけなのですが。(中略)
ある空間から最大の利益をあげることは空間を最も有効に活用することと同義であると、自明であるかごとくに考えられています。私たちの生きる時代の壊れ、貧しさ、不幸はこのように空間に貧困化に現れ、そしてまた逆に、貧しき空間が不幸な精神をつくり出します。

pp.4-6

● 創造せず破壊する昨今の「論客」

内田:売れっ子の「論客」たちの多くは論点をずらして、質問する相手に無力感・屈辱感を与える技術に長けていますね。でも、その虚無主義の背景には、「もう日本のシステムそのものがノンモラルなのだから、その状況に最適かして、自己利益を最大化するためにはそれ以上にノンモラルにふるまうのがクレバーだ」という状況認識がある。
対話や合意形成の場を一瞬で破壊するだけの力はある。でも、破壊に偏るのは、実力がないからなんです。新しくものを創造するのと、既存のものを破壊するのでは、どちらが大変かという話です。同じものであれば、創造するのに要する力の100分の1で破壊することができる。(中略)だから、この人たちは自分で作品を手作りして、「これが自分がほんとうに実現したかったものです」と言って差し出して、世の忌憚ない批評を仰ぐということをしません。たとえば、どんな未来社会を作りたいのかを示そうと思ったら、自分自身で小さな共同体を手作りしてみせるのが一番わかりやすい。「これが自分が実現したい未来社会の萌芽的形態です」と言って差し出せば、「ああ、この人にとってはこういう社会が理想なんだな」ということがわかる。
自分の実力以上に見せようとする人間は決して創造しない。ただ破壊するだけです。

p.115

● 査定する採点者側に回る

内田:ネット上では「あなたはその言葉をどういう意味で使っているんですか」というタイプの絡み方が多いですよね。これはきわめて狡猾な問いの立て方で、いきなり「回答者」と「採点者」という非対称的な権力関係を持ち込んで来る。それだと相手がどう答えても「違う」と応じることができます。一見すると、知的な態度を偽装していますけれども、目的は対話でも議論でもなく、査定なんです。自分が「査定する立場」を先取するために形式的に質問している。こういう「小技」に長けている人がほんとうに増えてきましたね。だから僕はネットでの匿名の問いかけには一切返事をしないです。
ほんとうに生産的な議論がしたかったら、「あなたがその言葉をどういう意味で使っているのか、もう少し詳しくお話しいただけませんか」と促して、しばらく黙って聴く。相手の言い分の当否については暫定的に判断を保留する。それが対話における基本的なマナーだと思うんです。自分には自分の意見があるが、それは「いったん括弧に入れて」おく。それができない人ばかり増えてきた。

p.187

● 現代文の講師の教え

白井:高校生の時に出席した予備校の授業で現代文の講師が、重要なことを教えてくれたのです。「皆さんのなかには現代文の成績が常に高い人と、時に高く時に低い不安定な人がいるでしょう。ここに来ているのは安定しない人が多いはずだ。そういう人は、課題に書いてあることに共感できるときには課題文の書き手の考えが手に取るようにわかるので正解できる。しかし、共感できないときには間違えまくる。君たちが理解しなければならないのは、現代文のテストで問われているのは、君が何を思うかではなく、そこに何が書かれているのか、筆者が何を書いたかを君たちが理解できたかということだ
この言葉には目を開かされました。後々わかってきたのは、これは単に現代文のテストで点が取れるかどうかということよりもはるかに重要なことに関わってきているということです。つまりは、他者の考えを正確に受け止めることができるのか、その姿勢があるのか、ということなのですよね。

p.188

● 論破の先に知的成熟はない

内田:党派間の論争を聴いて、「うまいことやり込めるな」ということには感心しましたけれど、そこから何か「よきもの」が生まれるというふうには思えなかった。それよりは、相手の話を聴いて、その中に潜んでいるかも知れない「自分がまだ知らないこと、自分の視野を広げ、自分の偏見を解除してくれるような知見」を求める方がずっと建設的じゃないかと思っていました。
学生運動家の中には「無敵の論破王」みたいな人がたくさんいましたけれど、彼らの中で、その後なんらかの知的な達成をした人はほとんどいないんじゃないかな。

p.190

● 若い男子のロールモデル

白井:今の若い男の子は生き方が難しいのではないでしょうか。
内田:難しいと思う。男の子たちのロールモデルが、システムの穴をみつけて自己利益を増大させる「小狡く立ち回るやつ」たちですからね。そんなものを目標にしても、人間のスケールが縮むだけです。
(中略)僕の場合は(中略)「兄貴世代」にロールモデルがいました。彼らが果敢に地雷原に踏み込んでいって、「ここまではやっても大丈夫」という活動領域を示してくれた。僕たち後続世代はその恩恵を多大にこうむっている。先人が後に続く若者たちのために未開の荒野に踏み入って、難所にはしごをかけたり、「こっち行ってもろくなことはないぞ」という道標を立ててくれたりした。今の若い男の子には、そんなふうに親切な先輩たちが道を整えてくれているという感覚があまりないんじゃないかな。
(中略)ロールモデルになる人は、器の大きい人、寛大で、包容力がある人ですよね。今の男の子たちはそういう「男らしさ」みたいなものは見たことがないんじゃないかな。

pp.176-179

● 自分探しと修行

内田:アイデンティティ・ポリティクスの根本にあるのは、「本当の自分らしさを発見すれば爆発的にパフォーマンスが向上する」という物語だと思います。これはたぶん欧米に固有のものだと思います。「自分探し」というのは、ある時期に日本でもが公教育の定型句の中に入ってきましたけれど、成長の物語としては日本に固有のものではありません。外来のものです。日本固有の成長の物語は「修行」です。
「修行」と「自分探し」は正反対です。いかに自分を棄てるかが主題ですから。東洋的な「修行」では、師匠について弟子になり、師の背中を見ながら、行を続けるのですが、これは持続的に「別人」になっていくプロセスです。(中略)三日経って会ってみたら別人になっていたというのが成長するということであって、言い換えれば「アイデンティティなんてどうでもいいよ」ということなんです。
自分は本当は何者であるのか、自分の際立った生得的個性は何か、その探求が最も大切であり、「本当の自分」が何者であるのかわかったら、その時爆発的に能力が開花して、あとは死ぬまで「本当の自分」でいればいい・・というのはかなり特異な成長譚だと言ってよいと思うんです。

pp.158-160

内田:「本当の自分」を発見すればすべての問題が解決するというのは、やはり一つのイデオロギーです。ある土地には「本当の自分」を発見しさえすればすべてが解決するというアイデンティティの物語があり、別の土地には「継続的に別人になってゆく」ことが人間的成長であるというビルドゥングの物語がある。結果的に生きやすくなるなら、どっちの物語を選んでもいい。なんなら、二つの物語をその場その場で使い分けたって構わない。

pp.160-161

● 自分探しの裏にある資本主義

白井:資本主義的に見ると、自分探しの方がお手軽だし、顧客が人間的に成長しないほうがものを売りやすいはずです。
内田:「自分探し」キャンペーンが始まったのは、80年代あたりからだったと思うけれど、自分探しのためには、「自分らしい部屋」に住んで、「自分らしい家具」に囲まれて、「自分らしい服」を着て、「自分らしい車」に乗って、「自分らしいレストラン」で、「自分らしいメニュー」を食べる・・というふうに消費行動でしか「自分らしさ」は表現できないという話でしたから、「自分探し」は資本主義的に消費行動を爆発的に拡大するたいへん結構なイデオロギーだった。修行なんて、ぜんぜん消費行動を刺激しませんからね。山に登ったり、滝に打たれたり、武道の稽古なんかしても、GDPの増大には1ミリも寄与しませんから。
(中略)市民の成熟は資本主義延命の邪魔になるからだと思います。みんな子どものままでいる方が資本主義が栄える。

p.163

● バブル崩壊後に厳密化した評価や査定

内田:90年代バブルがはじけてからこの自由な雰囲気が失われた。能力主義、成果主義、評価活動ということが言われ出した。(中略)経済成長が止まってからなんです。能力の発揮のしようがなく、成果の上げようがなくなってから、そういう言葉がうるさく口にされるようになった。
評価や査定なんかいくらやってもイノベーションは起きないし、売り上げが増えることもないんですから。でも、経済成長が止まってパイが縮み出したら「パイの取り分」について厳密な基準が必要だと言い出すやつが出てきた。パイが縮んできたので、隣の人間の分け前が「もらい過ぎ」に見えてきたんでしょう。貢献度や生産性に基づいて評価して、その格付けに基づいて資源を傾斜配分するという「新しいルール」が導入された。
白井:査定主義は結局、減点主義になるのですよね。だから、思い切ったことをやって失敗して大減点されるよりも、何もしない方がよいという判断になります。

pp.194-195

● 加速主義の行動原理

内田:日本社会がこのまま衰退していった場合にどういう末期的な風景が展開するか、それを早送りで見たいという好奇心が維新の政治をドライブしているという解釈はあり得ると思います。(中略)加速主義はわずかな入力差で劇的な出力変化をもたらす複雑系と相性がいいんです。
逆に加速主義となじみが悪いのは上下水道や交通のようなインフラ、行政、医療、教育などの制度資本です。こういうものは人間が集団的に生き延びていくためのものですから惰性が強い。状況が変わっても、簡単には変わらないのでないと意味がない。天変地異が起きようと、恐慌になろうと、「昨日と同じように機能している」ことが重要です。
だから、加速主義的な政治勢力は「社会的共通資本」を標的にする。大阪維新がまずやったのは公務員叩き、それから公共交通機関の民営化、医療機関の統廃合、そして学校の統廃合ですが、みごとに社会的共有資本だけを標的にしてきているのがわかります。たぶん直感的な選択だったのでしょうが、過たず目標をとらえていた。人間が集団的に生きてゆくときの安定的な土台を崩して、住民を流動化する。目端の利いた人間ならこの機会に乗じて公共財で私腹を肥やして個人資産を積み上げることができる。うすぼんやりした市民はその食い物にされる。安定性・継続性が命であるところの社会的共通資本を政治的・経済的変化によって激変する複雑系に作り替えた。

pp.240-242

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