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地球温暖化を平和の問題と考える

久しぶりの”世界の教養”はようやく25日目で、地球温暖化に関わる話。

素人的には、水蒸気のガスパネルと温暖化による氷の溶けや海の水分の蒸発が問題なら、ヒョウを人工的に降らせるなどして、水蒸気を一気に氷にできないかしらと考えてしまう。

いずれにしても、私は科学の分野の人間ではないからか、地球温暖化の解決策について本気で考えても限界がある。そのために、どこか他人事と思ってしまう。
もちろん、社会的な政策として何らかの対応をすべき、という問題はあるのだけれど、どうしても<自分の専門分野ではない>という感覚が抜けきれない。
これが温暖化問題の難しいところなのかもしれない。この”世界の教養”でも「科学」のテーマとして挙げられている。

でも、温暖化の原因を分析するのが科学の分野だとしても、それを食い止める方策は、エネルギーの作り方や消費の仕方、ときには酪農のやり方や移動の仕方など、人の営みのすべてに影響する。省庁的に考えるなら、すべての省庁に関わる。さらには、世界で足並みをそろえなければならず、他国の政策にも口を出す場面が出かねない。だからこそ、京都宣言など世界でいろんな人たちが苦労して合意をとりつけているのだろう。

この苦労は、平和を維持するのに似ている。
はじまりはいったん落ち着いた国境の線引きだったとしても、国ごとにいろんな産業が発達して格差が生じ、人権侵害が起き、国境を越えて人や物が動き、他国のことに口も動き出す。国と国の均衡が崩れかけたとき、領土に関する不満や過去の恨みやいろんな我慢が噴出する。その結果は・・・
そうならないよう、お互いに牽制し合い、いろんな合意をとりつけて、均衡を保とうとする。

日本が環境問題に無関心なのは、島国として平和について真剣に考えきれず、どこか楽観的に構えてしまい、本気で政府をチェックする人が少ないのと同じなのかもしれない。
でも、平和も、環境問題も、そういう一部の地域の無努力やときには破壊的態度によって、簡単に崩れてしまうのだ。


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