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あきなう人々

(画像は近くの納税協会併設の喫茶店の看板。ちょっと他に無いネーミング)

・今だったら訪問販売というのだろう、昔は家に行商の人がよく来ていたと思う。一番古いのは昭和40年代初め、わたしが4-5歳くらいの頃のこと。
錆びた乳母車に卵を入れた木の箱を積んで売りに来ていたお婆さんがいた。お婆さんは玄関先で母と世間話をすると卵を籾殻の中からひとつづつ出し、カゴにそっと重ねていくのだった。
ある時近所の人から、あのお婆さんはナカニシさん(兄の同級生)の祖母だということがわかり、別にそれだからどうということでもなかっただろうが、以来お婆さんはうちに来なくなった。わたしは、そうか、あの古い乳母車はナカニシさんが赤ちゃんのころ使っていたものなのか、と合点した記憶がある。

豆腐屋は自転車で来ていた。家の前をチリチリとベルを鳴らして走り過ぎるので、軒先にリボンを結んでおくのが「今日要ります」の印になっていた。うちは父が無類の豆腐好きで毎日のように買っていたため結局リボンはほとんどずっと軒先についたままだった。「まいど~」とベルが鳴りボールやお鍋を持って出て行くと自転車の後ろの大きな箱から豆腐を掬って入れてくれる。冬、豆腐屋の手は真っ赤だった。水の中から真っ赤な手が真っ白な豆腐を掬うのを上手だな、冷たそうだな、綺麗だなと背伸びして眺めていた。

その当時まだプラスチックのトレーやパックなどの包装材は普及していなかったので、卵や豆腐のように壊れやすいものは、そうして売りにきてもらえるのは便利だったし今から見たら随分エコだ。お米や酒類など重いものも近所の店から配達してもらっていた。

一方福井県から若狭塗の箸を売る人も定期的に来ていた。箸は消耗品だし、かさばらないから遠方からの行商に向いていたことだろう。いつも同じ人でわたしの名前も覚えてくれだんだん顔なじみになっていった。でも、どれがいい?と母に呼ばれて箱を覗いてもわたしはひとつも欲しいものがなかった。キャラクターのついたプラスチックのお箸のほうがずっと良いと思っていたので、箸が傷んだころにこの人が箱をかついでひょっこり玄関先にあらわれるといつもがっかりした。

・寺の多い地域に住んでいたから小学校の同級生にもお寺の家の子が多かった。寺の周辺には仏事を中心にした商いのネットワークがあるのだろう、花屋、仏壇屋、葬儀屋、饅頭屋、酒屋などがこまごまとあってだいたいが同級生の家だった。そういう場所の商売は安定しているのか最近も実家のあったあたりを歩いたがみんなちゃんと存続している。店先に立つおじさん、おばさんの顔に見覚えがあると思えば、それはすっかり年をとったかつての同級生で愕然としてしまった。

・中学生のころ、近所に「夜鳴きそば」の屋台が来ていた。二つ上の兄と一緒なら夜中でも食べに行ってよいことになっていた。テストの前などたまに二人で食べに行った。酔っ払いのおじさんたちも居て「学生は勉強」とか説教されたり、からかわれたりしながら黙々と食べた。無口な店主が、酔っ払いを絶妙にあしらうのは面白かったし何か勉強になったような気がした。お腹もいっぱいになって家に帰るともうテストの勉強なんてできないですぐ寝てしまうのだった。

大人になってから友達と博多の屋台に行く機会があった。やたら元気よく賑やかな屋台ばかりで、わたしたちは怖気付いてなかなか入れずにぐるぐると辺りを歩き回った。結局意を決してどこかに入ったはずなのだがそこで何食べたとかは全然覚えてなくて、そこに入る前の逡巡のことばかり思い出される。

もうひとつ屋台で忘れられないのは、以前住んでいた家の近くに来ていたラーメン屋のことだ。うちのすぐ近くに路面電車の線路があったのだが、その線路沿いの道を南から北の方角に流していた。気になりつつ一度も食べたことががないのでどんな人がやっていたのかもわからない。

ある朝外へ出ると、線路沿いの道端にラーメン屋の屋台が止まっている。誰もいる気配がない。近づくと、ついさっきまで営業していたかのように鍋やどんぶりなどもそのままだった。持ち主は戻らずそのまま何日も屋台は放置されたままだった。
1「急にラーメン屋が嫌になってやめた」説
2「なにかの犯罪に巻き込まれた」説
3「宇宙人に拉致された」説
当時いろいろな説が流れたが、あの忽然ぐあいは3しかないと今も本気で思っている。

・1980年ごろ、格安ツアーでシンガポールに行った時、観光・昼食のあとでレストランの奥の怪しげな部屋に連れて行かれた。添乗員がすごいショーを見せるというのだ。粗末な椅子に押し込められてツアーの人たちと顔を見合わせていると、やがて上半身裸の男が現れ、大きな声でタイガーバーム(のパチモン)みたいな塗り薬の説明を始めた。その横ではシュッシュッとやかんが不穏な湯気を立てている。
突然男はやかんを取り上げ、自分で自分の腕に熱湯を浴びせた。わたしたちは呆気にとられた。苦痛に顔を歪めながら間髪を入れず薬を塗りたくる男。
「ほうら、もう治ったぜ」というように男は得意げに腕を掲げた。薬の油分でてらてら光った患部は間違いなく変な色だった。
わたしたちみんな、泣きたいような気分でとにかく盛大な拍手を送り山ほど薬を買うと逃げるようにそこを出た。
シンガポールの思い出はそれしかない。

・昔よく買っていた鶏肉屋さんのおじさんは、もも肉を買おうが手羽先を買おうがいつも包みを渡しながらにっこりして「エエとこ入れときましたよ」と言うのだった。わたしは単純に(よく買うからサービスしてくれているのだ)と喜んでいたが、よく聞いていると、どうやらどの客にも同じように言っているのだった。(あたりまえだ)
一度だけおじさんは疲れて居たのか何も言わないことがあった。例の言葉がないだけでその日の鶏肉は味気ない気がした。それともその日だけほんとにエエとこじゃなかったのか、いまだに謎。

・15年くらい前、ニューヨークに行った時、ブルックリンで小さなブティックに入った。中国系の名前の女性オーナーが一人で自分がデザインした服を売るこじんまりした店だった。あれこれ眺めていると、突然大きな男が店に入ってきた。なにかの訪問販売のようだった。ヘンテコな平たい箱型の(いまだにそれが何だったかわからないが、絶対に売れそうにない一見してチャチな機械もの)商品を店のガラスケースの上に置いてしきりに説明を始めた。
店のオーナーは厳しい表情で追い出そうとしている。大人と子供ほど背の高さが違う二人のやりとりをわたしは(もし怖い人で居座られたらどうするんだろう)とビクビクしながら見守った。どちらも猛烈な早口で何言ってるかわからないけれどオーナーが「This is my shop!」と繰り返すのだけは聞き取れた。男は彼女の毅然とした態度についにあきらめて出て行った。ほっとした。彼女は何事もなかったかのように接客に戻った。わたしはタフな彼女にシビれて思わずプレーンなジャケットを買った。
そのジャケットは今だに持っていて着るたびに、彼女のカッコよさを思い出す。けれど年を経つにつれ、あの、どうしようもないヘンテコな商品を売りつけようとしていた男の必死さも思い出されるようになった。

・ずっと前、友人と冬の能登に行った。
ものすごい風に粉雪が舞う極寒の中、かの輪島の朝市にも行った。とにかく寒い日だった。悪天候で休んでいた店も多かったのか、店の数はテレビなどで見るよりずっと少なく閑散としている。そして観光客はもっとまばらだった。
海産物を並べて売る店の女性はみんな年配で、わたしたちを見て手招きする人もいる。近づくとか細い声で祈るように「買ってよう~買ってよう~」と言う。気の毒すぎて「買ってあげたい」という気持ちと「何か買わなければ・・」というプレッシャーの両方が湧き起こるが、値段を見てその意外な高さにたじろぐ。とりあえず「もうちょっと見てからにします・・・」とそこから逃げるように立ち去る。次の店でもまた同じ繰り返し。心が辛い。そして体は寒い。辛さと寒さの波状攻撃。私たちは居たたまれなくて朝市を退散した。

あそこは観光客向けだから高いだけだよ、という人もいるけれど、そういう商魂と向き合うほうがずっといい、いつか暖かい季節にもう一度行きたい。

・15年くらい前住んでいた家の近くにずっと閉店したままの小さな喫茶店があった。昭和な佇まいの小さな店で、手作りっぽい店の看板も微笑ましく、前を通りかかるたびいつもちょっと気になっていた。それがある日、なんとその店が開いているのを見つけた。
おお再オープンしたのか!早速わくわくしながら訪ねてみた。

ドアを開けると品の良い初老の男性が一人カウンターの中から小さな声で「いらっしゃい」と言った。
なるほどこの方がここのマスターだったのか、・・・と感慨深い思いでコーヒーを注文した。見回せば昔のままらしき内装は掃除が行き届き清潔感がある。
何気なく「長いことお休みされてましたね」と話しかけると、マスターは意外にも「いえわたし前の人から居抜きで借りまして」と言う。つまりこの方が作った店ではないのだった。
さらに「いっぺん喫茶店がやってみたくて」と笑った。つまりこの人はマスター歴数日のばりばりの新人なのか。そういえば、なんとなく雰囲気がまだぎこちない。でもきっとコーヒー好きでいろいろこだわっていた人が定年を機についに店を始めたに違いない、じっくり豆から挽いてくれるのかな・・とわたしが勝手に思い込んだその時だ。

マスターはおもむろに「モン・カフェ」的カートリッジをカップにセットした。
(え!モンカフェかよ!)
衝撃を受けた。

わたしはマスター手作りの店でマスターこだわりのコーヒーを・・・などと考えていた自分のステレオタイプな発想を恥じた。

それに対して、いっぺん喫茶店がしてみたくてやっているというこの人の、なんと軽やかなことか。そうか、それでもいいのだ。
そしてわたし自身も別にコーヒーの味にこだわりなんてないのを思い出した。モンカフェで、いいじゃないか。モンカフェ、美味しかったよ。マスター。

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