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樺太の乙女たち

昨日は終戦記念日ということで、取り上げたところも多かった…わけではないようですね。
戦後76年も経つと、やはりそうなってしまうのでしょうか。
ひょっとすると、「戦時中の苦難を色々と祖父母や父母から聞かされた」世代は、私と同年代の方々が、ギリギリ最期なのかもしれません。

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さて、表題の「樺太からふとの乙女たち」についてです。
まずは終戦直後の樺太の地図より。

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ソ連軍の北海道占領計画については、過去の読売新聞のオンライン記事より拝借しました。

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私自身はもちろん戦後生まれ(3年前に亡くなった母方の祖母が、辛うじて昭和9年生まれ)なので樺太についてはあまり詳しくないのですが、今でも樺太(現サハリン)への渡航拠点だった稚内わっかないには、当時の歴史を伝える史料などが残されているようです。

さて、ここから少々長いのですが。ソ連が南樺太に一方的に侵略した概略と、真岡まおか郵便局の関係についてWikipediaから抜粋した内容をまとめました。

1945/8/9 ソ連が日ソ不可侵条約の破棄、対日参戦
8/10 樺太島民の緊急疎開要綱が作成され老幼婦女子、病人、不具者の優先的輸送計画が決定
8/12 大泊港から第1船(宗谷丸606名)による疎開開始。真岡町を含む西海岸方面の住民は、15日より、真岡港から北海道への緊急疎開を開始。
8/14 ポツダム宣言受諾の決定
8/15 玉音放送。太平洋戦争終戦。
8/16 真岡郵便局長は、豊原逓信局長から受けた「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」という緊急疎開命令を受け、女子職員の緊急初回命令を通知。疎開させることを決定。

同日の真岡郵便局の朝礼で、主事補の鈴木かずえ氏により残留交換手に関する説明が行われた。仮にソ連軍が上陸しても、電話交換業務の移管が行われるまでは業務を遂行しなければならない旨の説明を受け、交換手たちは残留の意思表示を行う。
8/17 局長によりソ連軍進駐後に生ずる数々の事態の予想も説明・説得されたが、局員の残留の意思を覆すことはできなかった。
止むを得ず、逓信省海底電線敷設船(小笠原丸)を真岡に回航させ西海岸の逓信女子職員の疎開輸送に当たらせる了承を得たので、同船が入港したら命令で乗船させることとし、20人だけ交換手を残すことになった。
(※ソ連軍の侵攻が予想以上に早かったため、疎開輸送は実現せず)
8月19日朝、通常の3交代制勤務から非常体制に移行。同日午後7時過ぎ、高石班長以下11名の女性を中心に、夜勤体制に入る。
8月20日 早朝にソ連軍艦接近の報告が入る。高石班長は郵便局長の上田を始め、局幹部に緊急連絡を行う。その後、樺太に残っていた電話交換手の招集を試みるも、既に真岡の街にはソ連兵が上陸しており、街は激しい戦闘状態に陥っていた。民間人へも無差別攻撃が行われており、郵便局への出勤途中に射殺されたり、避難先の防空壕へ手榴弾を投げ込まれて爆死した局員もいた。

緊急連絡から約1時間後には、ソ連軍艦が真岡港に接岸。ソ連艦隊から艦砲射撃も始まる。

当時の真岡郵便局は本館と別館が存在し、電話交換業務は別館2階で行われていた。
20日にソ連軍艦からの艦砲射撃が開始されると、真岡郵便局内も被弾するようになり、高石班長の青酸カリ服毒自殺を皮切りに次々と自決。
また、この模様は泊居郵便局、豊原郵便局などに電話連絡されている。

※後に、9名の殉職者が確認され、事件から10日以上経ってから遺体の仮埋葬、12月に火葬・本葬が行われた。

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で、ここで時代は現代に戻ります。

2013年に私が北海道を訪れた際に、実は稚内まで足を伸ばしています。
単純に、「本州最北端の土地を訪れてみたい」という、よくあるありふれた動機ですね。

ただ、随分前に内田康夫氏の「氷雪の殺人」という作品を読んだ際に、作中で「真岡郵便電信局事件」に触れていて、稚内公園にも足を運んでみたのです。

訪れた日は肌寒かったものの、非常に見通しが良い日でかなり遠くまで見渡せました。
ひょっとしたらですが。
写真の向こうに見えるのは、樺太(サハリン)なのかもしれません。
(稚内公園より撮影)
確証はありませんが、稚内からサハリンまでは、肉眼でも確認できる距離です。(宗谷そうや岬-サハリン最南端が43km)

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道案内の標識にロシア語が出ているところが、かつて北の防衛拠点として稚内が重視されていた名残を伺わせます。

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稚内公園にある、「氷雪の門」。平和への祈りのモチーフとなっていますが、現実は。。。

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真岡の殉職した9人の乙女たちは、おそらく私の母方の祖母と同世代だろうと思います。
余談になりますが、亡くなった祖母からも、秋田の「土崎空襲」の話を聞かされていたのですが、今となってはもう少し戦時中の話を少しでもきいておくべきだったのかもしれません。

広島・長崎の原爆の歴史や、沖縄の悲劇ももちろん語り継ぐことが大切ですが。

もう一つの戦争の歴史として、北方の戦いに陽の光を当てられても良いのかもしれません。

追記:おまけ。
私が「真岡郵便電信局事件」を知るきっかけになった内田康夫氏の作品はこちら。

角川版は2007年に発売になっていますが、作中で北朝鮮のミサイル発射事件なども触れているので、もっと前に発表された作品だと思います。
ミステリーとしても壮大なスケールで語られており、冷戦の名残も彷彿とさせるような作品なので、よろしかったらどうぞ!

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