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色々と状況がリンクする

大変なことになっていますね。

現在、二本松少年隊の小説に取り掛かっている私。
後半が「明治編」になるのですが、主人公は、自分の住む土地や故郷が「賊軍」とされた世相の中で、生き延びていきます。
で、どうしても「薩長閥」中心の世の中なわけで、会津を始めとする東北諸藩への差別を描かざるを得ない。
もちろん具体的な事例はフィクションではあるのですが、結構きついのが、そのフィクションを描くために当たっている資料(福島県史)などで、「明らかに薩長閥によるポジションの独占」や、「国策」として会津を差別していた事実にぶち当たること。
それらの情報をもとに、差別されている様子を描いているわけです。

そう、会津を初めとする「奥羽越列藩同盟」への差別は、国策として行われました。

会津藩主松平容保は、奥羽の諸侯と申し合わせ、若松城に立てこもって官軍に手向かった。官軍は諸道から進んでほとんど一箇月も城を囲んだので、城中のものはとうとう力が尽きて降参した。

これは、大正に発行された文部省編纂国定教科書の「尋常小学校国史」からの抜粋です。
この教科書に徳富蘇峰らが疑問を呈し、早川喜代次氏などが教科書改訂運動を働きかけ、やっと改定されたのが、昭和16年でした。

もう、何というか。
実際には会津は「孝明帝」からの信任が厚く、御宸筆まで貰っていますが、ほぼ確信犯で、当時の薩長は徹底的に会津藩を潰すつもりでした。
よく誤解されがちなのが、奥羽越列藩同盟成立以前、「会津は嘆願書を提出して、助命」を請願しているのです。それも複数回。

それを絶対に受け取らなかったのが、世良修蔵でした。
力攻めで、何が何でも会津を始めとする東北諸藩を潰すつもりだったのでしょう。
第一、徳川宗家より重い処分(鳥羽・伏見の戦いの主犯を差し出すこと、容保公の切腹、領地召し上げなど)を下そうという事自体がおかしい。
それを誰が指示していたか。
やはり、流れからすると木戸孝允、大久保利通辺りでしょうか。
本日、長州の流れを汲む安倍元首相が、暗殺された。
テロはテロです。
ただ、「気に入らないことは力攻めで何とかしよう」という発想が、今から150年以上前と何ら変わっていないという事実に、歴史の因果を感じざるを得ません。

個人的に思うのは、やはり「怨みは怨みを増幅させるだけ」、ということ。

歴史の流れは複雑で、複数の要因が絡み合って思いがけない方向に向かうこともあります。
よく言われる「西南戦争は戊辰戦争の仇討ち」というのも、私は「そんな単純なものじゃない」と思いますし、戊辰戦争の怨恨の感情を巧みに利用し、積極的に東北の人々を警視隊として戦地に送り込んだ川路利良のやり口には、嫌悪感を覚えます。

ちなみに、徹底的に「人の感情を武器として利用した」川路利良は長生きできませんでしたし、大久保利通は、紀尾井坂の変で暗殺されました。
そして、評価が別れる西郷についても、個人的にはあまりいい印象はありません。
私学校を抑えきれなかった責任を取れよ、と思いますし。

少しだけ引用した二本松戊辰少年隊記」の水野進(良之)氏が現状を見たら、どう思うだろうか。
ふとそんな事を考えてしまいました。

©k.maru027.2022


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