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「どうする家康」考

千世さんの、「大阪人として物申す」を拝読いたしました。
いや、千世さんが突っ込むのは私もよくわかるんです。

私も大阪&大阪城は訪れたことがありまして、そのときに、関西人の並々ならぬ「秀吉」への愛を感じました。

丁度拙作(鬼と天狗)で、当初の予定よりもかなり「政治的謀略」を描いている真っ最中なだけに、家康側の政治的視点というのが、私は気になります。


違和感その1~なぜ信長生存のときから「天下統一」?

私が感じた違和感の1つ目のは、これです。
家康が信長に痛めつけられていた頃から、「天下統一の野望」があったという設定が、無理すぎる。
それだったら、勢力図からして、もっと早くから北の奥羽諸大名との交際をしていなければ、秀吉への防壁になり得ません。
実際に、伊達政宗の父である輝宗は、織田信長と交際していたと言われています。
現実的には、信玄亡き後の甲州・信州を平定するだけで精一杯だったのでは無いでしょうか。征服した新しい土地を慰撫するのは、そう容易い仕事ではないはずです。

違和感その2~女性の扱いがちぐはぐすぎる

私がもっとも違和感を感じるのは、ここです。一体何に遠慮して、女性に華を持たせたがるのでしょう。
それこそフェミニストからの「口撃」を恐れて、やたら「女性目線」を入れているのならば、勘違いも甚だしい。
一部の戦国大名において、女性たちが「男性と対等な立場」にあったのは事実ですが、それと同じくらい、「政治の道具」としても価値があったのも、また事実。
「奥に引っ込んでいるべき」瀬名がやたらでしゃばっているのも、私は当初から違和感がありましたし、於愛が妙に家臣に説教するのも、「アンタ、所詮側室でしょうが」と言ってやりたい^^;
(→本来は、女主人である正室から指図を受ける立場です)
そのクセ、久しぶりに登場した「お万」が、「この日のために息子を育ててきました」みたいなその言い方は、どうよ?と感じた次第です。彼女なりの家康への皮肉と取ったのは、私だけでしょうか?

違和感その3~「関白は征夷大将軍より上?」の無理矢理感

何かが引っかかるなあ……とつらつら考えていたのですが、一方で拙作で「尊皇攘夷」について考察をめぐらしていて、ふとひらめいたことです。
そもそも、「関白が征夷大将軍より上」という理論自体、無理があるのでは?。

征夷大将軍とは

征夷大将軍とは、平安時代に坂上田村麻呂が奥州平定のために授けられた官位です。いわば、武官の惣領としての官位でした。
一方、関白は成人した天皇の補佐役です。それを、今回の大河ドラマでは「天皇の代理」であるかのような説明がされていましたね。その事自体、まず大きな誤りです。強いて言うならば、その役割は「摂政」が負っていたものです。言い換えれば、関白は「公家」のトップであり、武家との従属関係はないとも言えます。
「関白」の実質的な権力がどの程度のものかというのは、時代によっても大きく変わりますが、少なくとも「征夷大将軍」とはそもそもの役割が違う。役割が違うのですから、その関係に「上下関係」があるはずがないのでは?
……というのが、私の考えです。

もっとも、当時の戦国武将たちが、どの程度「朝廷」の人事システムの知識を持ち合わせていたのかは、不明です。秀吉が近衛家の養子となって「関白」の地位を手に入れたのは、この知識の無知の隙を突いて、「よくわからないけれど、なんかすごそうな官職の権威」を、うまく利用しようと考えたからではないでしょうか。
農民の出身であるのは、武士の間では流布されていたでしょうから、武家の棟梁となるための「大義名分」に欠けますし。
そして、既に「幕府」の権威すら地に落ちていたのですから、信長などが利用しようとしていた「帝の威光」が、どの程度武士の間で認識されていたかは、疑問です。
秀吉が家康を無理に服従させなかったのは、どこかで自分の理論に無理があると感じていたからかもしれません。

家康の凄みが発揮されるのはここから?

それにしても、あと4ヶ月でどうやってこの中途半端な話に結末をつけるのか?
色々ツッコミどころはありますが、一つ言えるのは、石川数正の出奔は、「徳川家の軍事体制を変える」ほどの衝撃を持っていた、ということです。
千世さんへのコメントでも書きましたが、私が数正出奔の理由として考えているのは、やはり「秀吉が徳川家の情報を抜き取るために、数正を買収した」という可能性。それも、数正は家康のためと思いながら計算したものの、徳川家臣団には家康を含めて、結局理解してもらえなかった……というオチが待っていそうな気がします。
さらに、数正の出奔により、徳川家の軍制が「甲州流」に改められたのは、有名な話です。その面影は「山鹿流」の教えにも見ることができるのですが、

  • 将たるもの感情に左右されてはならない

  • かんを重視せよ

  • 戦わずして勝つ方法を考えよ

などは、この後の徳川家の方針にも通じるものがあります。
山鹿流の戦略(治政を含む)については、別記事でも紹介したことがあります。

そう考えると、感情論としては納得できなくとも、「国を堅実に治める」方法としては、やはり家康は優れた治世者だったと評価することができます。
人間的には「爽やかさ」に欠けますけれどね^^;
ですが、「パックス=トクガワ」と称される270年あまりの江戸時代の官僚システムは、数正の出奔がなかったのならば、やはり実現しなかったのかもしれません。


そうは言っても、やはり脚本家には「もう少し時代考証を重視しろ」と言いたいなあ……。
既にあちこちで「今回は時代考証は意味なし」が定説となっているので、期待はできませんが💦

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