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気まぐれ創作裏話④~八月十八日の政変の舞台裏~波山義挙前

只今、毎月1話ペースで更新中の「鬼と天狗」。
スローペースですが、プロット自体は割と早くからできているので、完結せず……ということはないです、多分(笑)。

本業で色々手出ししているのもさることながら、「直違の紋~」のときよりも、政局の動きを細かく追っているので、執筆者本人も全体像の把握が大変!……というのが、時間がかかっている主な原因です。なるみんは何気に二本松藩の要人なので、藩政というか国政にもがっつり関わっていたでしょうし。

現在の最新話である「藩公上洛」では、八月十八日の政変(公武合体派によるクーデター)+天誅組の変について、小沢長左衛門(実は、二本松少年隊小沢幾弥の父上)の報告、及び三浦十右衛門からの中で解説させてみました。

ちなみに、あんまりネタバレになってもアレなので、使わなかったエピや、大局にまつわるプロット(=マインドマップ)を抜粋してみました。


下関戦争前後

文久3年(1863年)3月に上洛した将軍家茂は、何やかんやと京都に引き止められ(本来は10日余りで江戸に戻る予定だった💦)、業を似やした老中小笠原長行ながみちが幕兵を率いて大阪に上陸。それでようやく、将軍家茂は解放されました。
ですが、時既に遅し。5/10に長州は単独でアメリカ商船を砲撃。元々この日は建前上●●●の攘夷決行予定日でしたが、一部の急進派公家を除き、長州藩は諸藩から非難されます。

が、懲りない^^;
何だかんだと「帝」を担ぎ出そうと、京都で工作を行います。
国元では下関事件の糾問にやってきた幕府役人を殺害し、船を奪う始末……。
幕府から「こちらから手出しするとは何事か」と怒られているんですけれどね。

薩摩の場合

実は薩摩も、文久3年のこの頃は、微妙な時期でした。
というのも、5/22も朔平門の変があり、その実行犯の一人が薩摩藩士だったという噂が。
なので、公武合体派のリーダー格だった島津久光は、人気を失ってしまいます。
もっとも、孝明帝からは信頼されていたようで、「奸人(図は誤字です🙏)を排除せよ」との内勅を受けていました。まあ、尊攘派を排除せよいうことですよね。
その一方で、7月上旬には国元で「薩英戦争」が勃発。鹿児島城下が砲撃され、久光公が上洛&越前の松平慶永(春嶽)と連携プレーを行い、長州を牽制する計画が、一時頓挫します。
→久光と松平春嶽は、元々一橋派(慶喜を将軍にしよう)以来の仲です。

再び長州

そして長州の狙いは、孝明帝の権威を利用して親征(帝が戦争・征伐に直接出馬)を行ってもらうこと。それで日本を一つにまとめて挙国一致による攘夷を実現しようとしました。

そのために、京都守護職だった会津の松平容保宛てに、「偽勅(関東に戻ってね)」の命令を、急進尊攘派公家らから出してもらっていたりします。

会津藩らの動き

ところが、これを察知していたのが会津藩。
というのも、容保公は帝から「あれは偽勅だから」と、こっそり打ち明けられていたのです。

さて、久光の上洛の予定が狂い、やきもきしていた在京の薩摩藩士ら。その一人が、業を煮やして急遽会津藩に接近します。
そして、帝の名を借りて勝手に進められていた「大和行幸阻止=クーデター」の計画を立案。
最終的には容保公を始め、公武合体派の公家や、在京の尊攘派大名(池田茂政は水戸藩徳川慶篤&一橋慶喜の弟です)の合意を得て、長州藩勢力及び急進尊攘派公卿の京都からの追放に成功します。これが、「八月十八日の政変」の概要といったところでしょうか。

天誅組の変

ところが、先走って大和国五条代官所(幕府の出向機関の一つ)を襲撃したグループがありました。
それが、「天誅組」です。京都のクーデターよりわずかに早く、挙兵してしまったんですね。
ですが、これも松平容保により鎮圧され、計画は頓挫します。

ですがここでわざわざ「水戸藩」の名を出したのは、意味があります。
実は水戸藩尊攘派と長州尊攘派の間には、「成破の密約」(水長同盟、丙辰丸の密約とも)が結ばれていました。
これは、「どちらか一方が尊皇攘夷の狼煙を上げる時、もう一方も行動を起こそう」というもの。
関わったのは、長州が桂小五郎など、水戸藩が西丸帯刀など。そして、仲介役の一人が結城藩の越惣太郎です。
この密約が結ばれたのは、万延元年(1860年)ですから、尊皇攘夷運動が誕生したころから、結ばれていました。

そのため、水戸藩は御三家の一つでありながら、幕府や諸藩から大いに疑いの眼差しを向けられていたと言えます。

政変後の水戸藩の天狗党の動き

そして、水戸藩の尊攘過激派の頭領の一人、藤田小四郎。
5月に一橋慶喜が江戸に返されたときに一緒に江戸に戻ってきていましたが、穏健派の山国兵部や武田耕雲斎に「もう一度上洛させて下さい」と嘆願し続けては、却下される日々。

関東各地に足を運び、次第に「同志」を増やしていきます。その一つが、渋沢栄一がうっかり参加仕掛けた「天朝・慷慨組の変」(11月。未遂に終わります)などにも繋がっているというわけです。
で、どうも長州の桂小五郎から「成破同盟」に基づいて、500両の資金提供を受けた模様^^;

ですがそれでは当然「攘夷運動」の資金には足りません。
そこで、関東の裕福な商家(笠間、下館、真岡は木綿で利益を上げていた商家が多かったようです)に難癖をつけ、「今まで自分らだけ儲けて庶民を苦しめたのだから、その分義援金として金を出せ」と乱暴を働くようになっていきます。

これが、文久3年末~元治元年頭にかけての話です。

まとめ

改めて見ると、最初こそ「国を救いたい」というピュアな思いもあったのでしょうが、「波山義挙」の直前になると、幕府が討伐に動き出すのも無理はなかったのではないでしょうか。
個人的には、やはり天狗党は「テロリスト集団」のイメージが強いです。
それが、明治以降の皇国史観の陰に隠れて、妙に美化されている部分も多いと感じます。

何だか、noteでも時々物騒な思想の持ち主を見掛けますが、思想実現の手法を誤れば、美談でも何でもなく、ただのテロリズムに過ぎません。
天狗党の歴史は、そんなことを教えてくれているような気もするのです。

で、個人的に文句を言いたいのは……。
二本松藩の藩史&市史でこれらの動きが伝えられていないのは、何故なのか^^;
多分、戊辰のどさくさで記録が失われてしまっただけだと思うのですが……。

#鬼と天狗
#日本史がすき
#水戸藩
#天狗党
#尊皇攘夷
#幕末


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