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お菓子を、買う

 冒頭からクライマックスを書くのはネタバレを好まない私からすれば嫌で嫌で仕方ないが、要点を簡潔に述べる。いや、述べさせられると言い換えた方がいいだろう。

 結論、私の人生はウエハースに乗っ取られてしまった。今こうして文章を書いているのも私の意思ではなく、脳に巣食うチョコレートが神経を通じて司令を出し、小麦粉でできた肉体を操作してただひたすらに世の中にアウトプットを続けている結果である。

 低俗な身分の私は哲学界における落伍者未満のため、「自分が自分であること」について深い理解や確証を持っているわけではない。

 何が私という人物を形づくるのか。全く同じ見た目の全く同じ経験を積んだ人間がもう1人現れたら、それは私と言って良いのか。

 それとも「その存在」の認識は、「私」と「もう1人」が別々の座標に位置することを意味するため、(賢い人間なら分かるかもしれないが、物理的に異なる存在が同じ座標にいることはない。ちなみに私は賢くないので分からない)2人がドッペルゲンガーの如く邂逅しようがしていまいがその瞬間に見ている景色は全くもって異なることが推察できる。

 その場合両者は最早「同じ経験をした存在」とは言えず、私とは別物になるのか。

難しいのでこの話はここでやめるが、ただ少なくとも今この瞬間にキーボードに打鍵している私という存在は、「私」とは言えなそうなのである。

 これまで私と外界を隔てる役割を果たしてきたシルクのような皮膚もすっかり変色し、ウエハースと同系色のゴツゴツした肌触りとなってしまった。

私の同一性、アイデンティティは喪失し、これからはウエハースのための容器として戸籍上でのみの生を過ごすことになる。もはや私に連続性は存在しないのである。

昨日の私と今日の私は別物であり、頭の先からつま先まで、どこまでいっても私ではなく、慣れ親しんだ友人や擦り切れるまで読んだ本でさえも最早ウエハースを構成する要素となってきているのだ。

ここまで侵略が進んだ以上、もうウエハースに抗うことはない。自分の運命を受け入れると決めた。

そう、これは僅かながらに自我を残す私が発する最後の創作活動であり、今後一切の生活は軽く叩けば砕けてしまうような板状の菓子が担当することになるので、その辺りはよろしくお願いする。




 有り体に言って、これまでの人生で私はウエハースとの関わりを持ってこなかった。眼中にないと言えば言い方が悪いし、目の中にあると言えば相当な痛みを発することが決定的な存在であるため、適切な慣用句が見つからないが文意が伝われば幸いである。

そんな月とスッポンの関係であった私とウエハースとを繋ぐ仲人を務めたのは、意外にも病原菌たるインフルエンザであった。

 元来私は病弱な身である。数十年前に私が爆誕して以降、巷で流行ってきた病気という病気は総なめしたと言っても過言ではない。10代半ばにはマスクなどの医学的なグッズと縁を切り、まだ罹患してない種を集めに行くというスタンスで日々を過ごしていたほどだ。

 ある年のある日、私は例年通りインフルエンザの侵入を許した。それを最早年中行事として位置付けていた以上、侵入を許したというよりはお歳暮のような感覚で自宅に届いたという方が適切に思える。

こうした私の身体の玄関や勝手口が常に全開であったという事実は、後にウエハースが大黒柱として君臨することを全くもって予想外の出来事にはしない、上手な伏線として機能することになる。


 病床に臥した際に母から受けた数々の教えの中で唯一役に立ちそうだったのは、

「病気の時は山盛りの栄養を摂ること」

というものであった。健康に良いものの過剰摂取というアンビバレントな行動が、身体に認知的不協和をもたらし、ウイルスにお暇していただけるという論法である。

その教えに倣い、病院の帰路、不気味に火照り軋む四肢に鞭を打って私はコンビニエンスストアにたどり着いた。24時間空いているということは15時にも空いているということなので、コンビニという建物は非常に便利だと改めて実感したことを覚えている。

 節々の痛みを逃すためにやや背を曲げ小学6年生と同等の眼線となった私は、いつもと違う景色に戸惑いつつも、目端に飛び込んできたビカビカのパッケージを見逃すことはなかった。

私が今の身長に似合う年齢であれば、すぐさま母の元におねだりに行くであろう見た目のそれは、皆様の予想通り陳列棚一面に並ぶウエハースであった。

 高熱により食欲の座をインフルエンザに譲り渡していた私が、それでもなお手放さなかったのは甘味への執着だったようだ。

私は「現代のメロス」と呼び声が上がるほど政治に無頓着だが、もし「甘党」という政党があるのならば比例代表だろうが小選挙区であろうが持てる票を全て注ぎ込むほど入れ込むことは確実である。

さて、商品の話に戻ろう。私のようにスーパーマーケットでしか買い物を行うことができない庶民の方々にしか理解が得られないかもしれないが、昨今のウエハースは商売が上手い。

なんとウエハースの中にランダムでシールが入っているのである。しかも暗闇で光るやつだ。この世でそれを欲さない人間がいるというのなら名乗りをあげてほしいくらいの代物である。

ただ行間が読めずに本当に無欲な人が自己主張してきた場合、その世の中はかなり怪しいのでシールの希少さを測る物差しとして参考にはならないだろう。外れ値の「この世」である。
ウエハースの身体で現世をやっていけるか不安になるタイプの外れ方といえよう。

 全人類がシールを欲していないというデータがない以上、ウエハースは外袋を開けシールを入手するインセンティブを含有している。

 しかし報奨に釣られてまんまと開封したが最後、その瞬間からどんどんウエハースの品質劣化が始まってしまう。

 つまりウエハースはピカピカのシールで人を誘き寄せ、強制的に本体を食べなければならない状況に陥れる罠を持つ、チョウチンアンコウのような食べ物だと分析できよう。

 この全身余すことなくユーザーに向き合う商品に対して、私の中のコレクターの血が騒いだことはいうまでもない。
 ここで白状させてもらうが、私は「蓄光」という言葉に弱い。その根源を探るのであればその昔、両親がプリキュアのパジャマを買い与えてくれなかった時まで遡ることができる。

知っての通りプリキュアは強い。軽自動車を片手で持ち上げるくらいの無駄な怪力を秘めている。私の幼稚園時のお友達はそんな美少女戦士と共に眠ることができたため、お化けを恐れることはなかったのだろうと考えると、羨ましくてたまらない。

 一方で私は無骨なデザインのクマさんのTシャツで夜を過ごしたため、霊どころか服から飛び出してきた熊に襲われたらどうしようかと、普通の人に比べて2倍震えて夜を過ごしたものだ。そのおかげで私は何事にも動じない鋼の肝っ玉を手に入れることには成功したので人間万事塞翁が馬である。

 そんな私も暦の上ではもう立派な大人である。定職についていない以上「暦の上では」という条件をつけなければならないのは悔しいが、「何袋買うか」なんて子供じみた規模での買物はしない。箱買いだ、箱買い。金は唸るほどある。

ただATMに収められたたくさんの現金が叫びを上げたというニュースを聞いたことがないので、この修飾語の使い方は間違っているのかもしれない。
 更には修飾語という単語に含まれる“しゅうしょく”の部分は嫌な気持ちになる音でもあるので連鎖的に間違った言葉遣いをしている可能性もある。

どのように帰宅したのかは覚えているが、ドラマチックな部分は無いのでウエハースを食すところまで割愛させていただく。

 さて、ここまでの内容を理解しようとせず、忍耐強さがカケラもないファスト映画好きの方々のために要点のみを説明すると、私はインフルエンザになったことで大量のウエハースを自宅に持ち込むことに成功した。

帰宅するまでに大半を食べてしまったので正しい回想ではないが、今後の展開に関わることでは無いので気にせず話を進める。

 といいつつもこの身体で文字を書くのに疲れてきたので話を終わらせようと思う。ウエハースとは魔性の食べ物であり、一度食べると止まらない性質を持っている。その日から私のルーティンの中にウエハースの購入及び咀嚼が組み込まれるほどに。

昨日は1日3食全てをウエハースで済ませてしまった。野菜に関しては1か月近く口にしていないし、肉に関しては目撃件数が数件程度な状況である。

 人の細胞は4か月で完全に入れ替わるという。あと3ヶ月はこの生活が続く見込みなので、その頃には全身ウエハースで構成されたウエハース人間が出来上がるのだろう。それを考えると今も震えが止まらない。はやくプリキュアに助けを求めなくてはならない。


これが今回の内容である。ウエハースは非常に健康的で素晴らしい食べ物だといえるだろう。

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