「自由」が、生きる元気を生み出す

2週間前から食事制限し、昨日から入院したことで、「自由」こそが生きる元気を生み出すと実感しました。

この2週間、食事は、指定されたレトルト食品とフルーツのみ。街を歩いても、テレビを見ても、美味しそうなお店の映像が多数流れる中で、どのお店にも入って食べることはできませんでした。

元々、食事制限がなくとも、ハズレを引く可能性がある新しいお店に行くこと自体、私はほとんどありません。「もっと美味しいものを食べたい」よりも、「美味しくないものを食べたくない」欲求の方が強いからです。

このような「自由に意思決定できる状態でもどうせやらないこと」を制限されただけでも、小さなストレスを感じたのです。

加えて、昨日から入院すると、「入院すると、もう外出できません」と言われ、行動が制限されました。当然、PCもスマホも書籍も持ち込んでいるため、仕事も動画視聴も勉強もなんでもできます。考えることも自由にできるため、楽しみはいくらでもあるはずなのですが、移動できるのは病棟のフロアのみ。

自由と変化がない中で、出てくる食事の時間だけが楽しみになっていることに気づきました。物理的な外部刺激が遮断される中で、食事だけは決まって出てくるからです。

その時、2つのことを思い出したのです。

一つは、1歳の娘が、いつも食事を幸せそうに食べていたこと。これまでは「食べるのが好きな子なのか。美味しいもの食べさせてあげたいな」とだけ感じていました。しかし、子どもの立場にたつと、自分の意思で自由に外出もできず、親に連れられて移動し続ける生活の中では、確かに食事が最高の楽しみになってしまうのは当然ではないかと思ったのです。

二つ目は、祖母が亡くなる直前、病院にお見舞いに行った時、「痛い痛い。もう早く逝きたい」と何度も言い続けていたことです。正直、当時は、「おばあちゃんがいないと寂しい思いをする子や孫がいるのに、なんでそんなことを言うのか」と思っていました。しかし、今なら、その気持ちも想像できる気がしました。入院するだけでも行動の自由は制限されます。加えて、病状が末期になって入院してしまうと、将来、行動の自由が回復する見込みもなくなってきます。病院内で変化のない日々で、かつ生きているだけで痛いとなると、そのような心境になるのも分からなくもないなと。

当時の祖母も、今の私も家族がいます。だからこそ「元気に生きなきゃ」と思います。しかし、そんな状態ですら、祖母が「早く逝きたい」と思ってしまっていたのは、生きる元気を生み出す全ての原点は「個の自由」であるからなのかなと感じました。

振り返ってみると、私自身、「個の自由が大事だ」という価値観を根源に持っているが故に、自分らしく生きる「起業・独立」を応援する学校を運営し続けているのかなと、改めて気づきました。

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