分かったふり

寝れないから何かを書く、が習慣化してきている。何かを読むという事を最近はあまりしていない。深みが出ないとは思うけれど仕方ない。興味がわからない。体力がない。僕の思う自由はそれは本当に圧倒的な自由の事で、それを思うとおいそれと自由が欲しいとは言えない。それはとんでもないわがままに聞こえるからだ。僕が考えていることはやっぱりおかしいらしい。文章の前と後で整合性が取れず、一貫した信念がなく、自分勝手。責任を全て人に押しつけて開き直ったような態度で、いつもいつもいつもいつも、意味もわからない事を喚き散らしているようだ。

価値のない人間に生きる資格はない。と心のどこかで信じているが、それと同時に、価値のない人間など存在にしないとする事が救いになると確信している。しかし、逆の立場に立つ人も多くいて、価値なんか考えずに生きていてもいいんだよと言ってあげる事が人にとっては、大切だと主張したがる人もいる。どっちでもいいし、多分どっちも違う。価値のない人間には生きる資格はなくて、価値がない人間はごまんといて、だから人間は死ぬ。

人間は死ぬのである。僕も貴方も死ぬのである。そして、結局それがいちばん人生にとって、気づくべき真実なのかもしれない。あるいは将来、遠い将来人が死なない日が来るかもしれないが、その時はじめて、ゆっくりと生きている意味についてあれやこれやと考えてみれば良いのではないか?それまでは、死が怖いななどと震えながら、じっくりと順番待ちをしていれば良いのではないか。

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