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人が空間を共有することの深度

群衆に身を置かないということが、新型コロナウイルスによって世界に与えられた気づきである。

海外では団結し協力し合う傾向が日本と比較して多いらしく、その影響は我々が想像するよりも大きいものだろう。

日本人は群れたがらない人種だと言われるそうだが、古くからの日本は隣近所同士や、会社の同僚間での家族ぐるみの付き合いなどが土着の文化として根付いていたはずだった。

私の祖母の家も、玄関を開けておくと「いるかー?」と大きな声で近所の人が代わる代わるやってきて世間話をしたり野菜を置いたりして帰っていった。

2020年からはその真逆に世界中がシフトしていくことになり、これまで身を置いていた群衆から距離を取ることになる。不思議なもので、物理的に距離を取ると抽象的に群衆を捉えやすくなり、その群衆の出来、不出来が目につくようになる。

物理的に群れていなければならない、ということ自体が脆弱な特徴に変わった。群れずに繋がる、という曖昧な関係が意味を深めていった。

ZoomやLINEやTwitterごしの繋がりが、これまでの群れるという行為と近しい関係性を指すようになった。スマートフォンの浸透とウェブサービスが多数広がっていく中で、2020年からインターネットコミュニティは形はないものの姿形を変えつつ多様に増殖している。

政治的な意味で時代を支配しているのは物理的な組織のままであるのだが、政治のない日常的な意味での時代を支配しているのは論理的な組織が取って代わった。

質の高い繋がりが非物理的に持てるようになった。一昔前は合コンが出会いの場だったが、現代ではマッチングアプリがそれに取って代わったように、直接的に同じ空間を共有することが非効率であるとされる文化がつくられた。

一方で物理的な繋がりというのは、それに増して深い繋がりだけに収束するようになった。家族や親しい友人、深いビジネスパートナーなど、多くの人に囲まれるのではなく、数えるほどの少数に囲まれることで充分幸福を感じれるように進化したように思う。

それまで「一応会うことにしていた」という付き合いも正当な理由で不要となった。必要とは何か。自分にとって空間を共有したいと思う動機があってこそ、同じ場所にいる意味のある人である。

その動機は言葉にする必要はないし、同じ空間にいるだけで会話すらなくともよい程の関係性に収束しつつある。

日本がこの傾向が強く、コロナによってこの距離感が最適であるという空気感が蔓延している。海外はやはり物理的繋がりが深いためか、元の生活に戻るスピードが早いようだ。

このまま新しい空気感が日本を支配するのか。全くの元に戻るような予感はあまりしない。


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