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こころの断捨離の先にわずかに見えるもの

12日間の山ごもりから帰ってきましたー。
(と書いたのが1か月前!そのあと、韓国に行き、落ち着いてひとつずつ言葉にしようとしている今です)
なんとも大変で、でもとてもとても深いところで心が震えるような本当にありがたい時間でした。

一切のデジタルデバイスから離れ、いっしょに参加している方々とも話すことのない(”聖なる沈黙”という誓いをたてるのです)10日間。

本も、メモをすることも、音楽やラジオを聴くこともない。ただただ自分の内側を観察するというこの体験が、日常の自分がどんなふうに世界を見ているのか、をいやというほど教えてくれました。日頃、何に自分が翻弄されているのか、ということも。

ただただ自分の内側を見つめ続ける。
そうしていると、日に日に無意識の奥底に沈んでいたものに出会うようになります。

心の奥底に握りしめていたもの。
恐れ、嫌悪、渇望、怒り、悲しみ、、、。
それらが、固くもつれてしまった結び目のような心の癖。
ひとつひとつ出会い、観察し、ほどいて、手放していくプロセスはまさに心の断捨離そのもの。
自分というシステムの奥で常に作動しているバグのようなものが、ひとつずつクリーニングされていくような体験。日に日に身体も心も軽くなっていくのは気持ちがいいものです。

自分の感情の波に何度も溺れそうになりながら、休憩のたびにお庭にでると、ていねいに整えられたたくさんの植物たちがいつでも迎えてくれます。(このお庭を整えてくれている人たちにもこころからの感謝を!)

植物たちの美しさに、こんなにも心震えるくらい感動したことがこれまであったのかな。
そう思うほど、日ごとちがう様相を見せてくれる草木に、花に、そしてのびやかに歌う鳥たちに、心が癒やされていました。完璧に調和している世界は、そこにいつでもある。わたしの目が曇っていて、目に入っていなかっただけなのだということにも気づかされます。

日常のなかでは、知らないうちにたくさんの情報に囲まれているから、世界を繊細に味わう感受性を閉ざさざるを得ない。
そう思い込んで暮らしていたけれど、この世界はほんとうはこんなにも美しいのか、と感じられる心の状態であることの豊かさ、そしてその意識をいつでも選ぶことができる、と感じられる瞬間でもありました。


そして、こう書くのは少しためらわれるけれど、、、
この美しい草木、この世界と自分は一体なのだな、とあたりまえのように自然に感じていることのしあわせ。ただ大きな流れがあり、その流れのひとしずくとして、今この瞬間を生きていることが、すとんと受け入れられる感覚。

世界にひらいている自分を、たいせつに持って帰ろうと思ったのでした。

断捨離をする意識には「ただ今のあるがままの状態をあきらかに見て、選択する」があるように、心の断捨離の先には、過去から持ち込んだ幻影を取り払った「ただ目が開かれた存在としてのシームレスなわたし」があるのかもしれません。

まだまだ、その入口が開かれていたことに気づいた!というほどの体感しかないけれど、すこしずつ大切に続けていければと思っています。

あなたが花に目をやるとき、あなたは実際の花を見ているのでしょうか。

それとも、その花についてのイメージを見ているのでしょうか。

その二つは全く異なったことです。

あなたが、その花の名前を思い浮かべることなしに、言葉も、思考も、それについての感想、好/悪の反応など、内心の呟きもなしに、いかなるスクリーンも通さず見守るなら、その花は驚くべき色彩と美とを帯びてくるはずです。

見ることと学ぶことは一つの偉大なアートです。

もし、あなたが敏感で生き生きしており、内外のあらゆるものを見守っているなら、あなたと花の間との空間は消え去るでしょう。

その空間が消滅するとき、物事は驚くほど生き生きしており、異様なほど強烈に見えます。

同じように、あなたがその空間なしに自分自身を観察するとき、観察者と観察される対象(思考・感情・感覚)とのあいだの空間がないとき、何の矛盾も葛藤もないことを理解されるでしょう。

見ることが学ぶことです。

それによって心は快楽を求めようとはしなくなります。

そのとき生は全く異った意味を帯びます。

人は生きるのです、何の追求もなく。

クリシュナムルティ

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