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主体的に走るということは楽しむという回路へ接続することである

車で走るということ

 自分は車の運転が嫌いだった。どのくらい嫌いだったかと言えば、自家用車を手放したときの理由がバッテリー上がった為である。
 どういうことかというと、移動手段として必要なくなったらバッテリーが上がるまで乗らなくなったのである。
 自分は自家用車を手放した当時、車をただの移動手段としてしか捉えていなくて、しょうがなく所有し運転していたのである。

 本当にそうだったのか。
 いや、以前はそうではなかったではないか。

 ここからは少しその事を考えるきっかけになった、オンライン企画と一人のアーティストについてお付き合いください。

オンライン企画(早朝)

・2020年7月23日「海の日」
 PLANETSCLUBランニング部主催のオンライン・ラン「海の日ラン」が開催され、九州は大分県より参加した。

 「オンライン・ラン」とはオンラインサロン「PLANESCLUB」の分科会であるランニング部で定期的に開かれている全国どこからでも参加が可能で、各自が自分の参加できる時間、場所で走りオンライン上で毎時0時ぴったりにzoomに入りその時走っているメンバーとばったりオンラインで会ってモチベを上げる事もできる企画だ。

 今回の自分のルートはまず大分川河口に向かいそこから海の日にならって海岸沿いを温泉で有名な別府まで走り、最後は駅前にある高等温泉にて汗を流すコース。

 当日、早朝5時前よりスタートを切りまずは大分川へ向かう。5:00ジャストにzoomに繋ぎ他のメンバーが入ってくるのを待つが…… 

 (し~ん)

当然、ふだん早朝ラン主体で活動してるのは自分くらいなのでしょうがない。
zoomを閉じて早朝の景色を写真に撮ったり、河原の虫の音を動画で記録し、それを「海の日ラン」のスレッドにアップしながらランニングを続行。 

 疲れたら、先月のオンライン・ランの時の他の参加メンバーさんを真似て、コンビニよってアイスコーヒーブレイクも入れつつ1時間後の6:00ジャスト、zoomに繋ぐ …… 

 (し~ん)

 どうやら主要メンバーの多い関東地方は雨だということだった。悪天候ではどうしようもないし、むしろ無理は禁物。

 ここからのコースは海沿いの国道沿いコースが続く。早朝とはいえ車の交通量も増え、車の振動音などに聴覚を奪われる為、久しぶりにAirpodsに音楽を流しながら走る。
 途中で寄ったビーチでは波打ち際の音に癒されたりしていたが、たまには音楽のある走りも良いものだし、この時聴いていた音楽も最近ハマっていて徒歩通勤や自転車通勤時に聴いていた音楽でもある。その音楽のおかげなのか、なんだか少し癒されながら走らされていたかもしれない。

 そして、もうすぐ海沿いの国道沿いコースが終わりに近づいた7:00ジャストのzoomに繋ぐ。
 今度は関西メンバー、関東メンバーさんが登場。関西は曇り模様、関東はやっぱり雨模様。そんな中、ふだんstrava(ランニングソフト)でも繋がっているメンバーと「走りながらzoom」でテンションも上がる。
 しばし雑談を楽しみ最後に集合スクショを撮って、数分間のやりとりでモチベが上がる。最後のポイント温泉へ向かい、最終的には計21キロも走ることができた。  

 温泉で一汗流した後は朝からやってた定食屋さんで豚汁セットと生ビール×2をいただく。

 至福の瞬間を味わうとともに、今回はこれにて「海の日ラン」を締めた。

 毎時0時ぴったりにzoomに入り、数分間だけ並走を味わう瞬間や、スレッドに景色の写真をアップする事により、それを追体験してもらえること。それらによって気持ちが高揚し気持ちよく走る。
 単調な海沿いの国道沿いコースではイヤホンからお気に入りの音楽を流しながら気持ちよく走る。
 そして、ラン後に汗を流し、美味い飯を食らう。

 WERunに投稿して以来、自身でも初めての早朝に温泉&EAT(朝生ビール)まで堪能したのがこのオンライン・ランだったのである。

 次の日、自分は嫌いだったはずの車の運転を2時間以上、それも高速道路の運転をほぼ休憩なしで楽しんでいた。外は場所によってワイパーを高速で動かすほどの雨と霧模様。車内はそんな事お構いなしにお気に入りの音楽を鳴り響かせていた。

 ここからは「海の日ラン」の夜に開かれたオンライ企画を振り返りたい。

オンライン企画@zoom(夜)

 海の日ランを堪能した夜、もう一つオンライン企画にzoomで参加した。
 (この企画がどのような企画であったかは諸事情で省略します。)
 この企画に参加しながら自分にとって車の運転とは何だったのだろうかと振り返えることになったのだが、以前の自分は運転が嫌いだったわけではない。むしろ日常を充実させてもらえる空間だった。もちろん車が通勤手段であり、移動手段だったという側面もあるのだが、日々の生活の中で好きなものに没頭できる最高の空間だった。

 この企画で印象に残っている言葉がある。日々の移動手段の中で車は日常(通勤など)非日常(旅行など)をシームレスに繋ぐ事ができるという話である。
 簡単な例としては買い物行ったついでに遠回りをする。その逆で旅行帰りに買い物に寄って日常に返ってくる装置として駆動させる事もできる。

 要するに自分が主体的に時間をコントロールできるのである。

 まさに以前の自分はたまに遠回りしながら音楽に没頭していた。時間、速度を自由に調整しながら、車という空間を音楽を楽しむ箱として、音量を調節しながら最高の時間を楽しんでいたではないか。音楽を聴く装置であり箱として。

 そんな中なぜ嫌いになっていったのかは、移動手段として必要なくなり、乗らないのに維持管理費だけがかかる状況になった為である。
 おまけにこの時自分はファッションという沼に肩までどっぷり浸かり(現在は抜け出すことに成功)、毎月の支払い方法をどうするか分析する日々が続いていたのである。
 そのような事が重なりいつの間にか余裕がなくなり自分は車そのものが嫌いという錯覚に陥ってしまったのである。

 そう考えると自分は正直、車の運転が好きではないのかもしれないが、それは運転という行為自体に自分が主体的に取り組めないだけであり、その原因は単純に費用対効果ということになる。
 自分で走るも、車で走るも自分が主体的に時間をコントロールできるのは一緒ではあるのだが、水分とガソリン、ランニング費用と維持管理費の差はでかい。
 しかし、その問題は今カーシェアリングサービスによって解決され自分は必要な時だけ車を主体的に使う事のできるスタイルを獲得している。
 ただそれだけでは移動手段としての主体性を獲得しているだけで運転自体が好きになるわけではない。ここで自分にとって運転という行為自体に変化をもたらす装置が音楽である。
 以前の自分は車の運転が好きだったわけではない。ただ音楽を聴くという主体的行為に付随して運転という行為が楽しむという回路に置き換えられていたのである。以前の自分は運転を楽しんでいたのだ。

 そして「海の日ラン」の海沿いの国道沿いコースを走っていた時、高速道路運転中、共に自分はあるアーティストに聞き惚れながら走っていた。

石橋英子という音楽家

 石橋英子というアーティストがいる。

石橋英子/EIKO ISHIBASHI(オフィシャルのプロフィール冒頭を抜粋)
石橋英子は日本を拠点に活動する音楽家である。
電子音楽の制作、舞台や映画や展覧会などの音楽制作、シンガー・ソングライターとしての活動、即興演奏、他のミュージシャンのプロデュースや、演奏者として数多くの作品やライブにも参加している。ピアノ、シンセ、フルート、マリンバ、ドラムなどの楽器を演奏する。

 今自分は彼女の音源をしばらく視聴し続けている。最近は追っていなかったので、正確にいうと過去作品ということになる。
 久しぶりに聞き直すことになったきっかけはzoomの企画で自分の音楽プレイリストを30分流すという企画を日本のポップスというかなりゆるい縛りでやった時、その中で取り上げた一曲が彼女の曲だった。
 その時取り上げたアーティストは8組いるが、それきっかけで聞き直しているアーティストは彼女だけだ。
 そんな彼女の音楽の魅力は自分の所有している1st Album 「Works for Everything」からPiano Solo Album 「I’m armed」まで一貫していて、楽曲、歌詞、しっとりとした霞みがかった歌声などはもちろんなのだが、それらが織りなす何とも言い難い包まれるような異様な懐の深さを感じてしまうとこにある。
 表現力や分析力が乏しく申し訳ないのだが、その懐の深さを言い換えると彼女の音楽には何か余裕というか余白みたいなものを感じるのだ。
 それは何か忘れていた感覚を思い出させてくれるような。ふと立ち止まって振り返えらせてくれたりするのだ。

 先月行われた「海の日ラン」の時は2nd Album 「drifting devil」を聴きながら海沿いの国道沿いコースを背後から照らされる朝日と音楽に包まれながら走っていた。

 次の日は雨と霧で霞がかったまるで3rd Album 「carapace」のジャケットような高速道路を、同アルバムをメインに聴きながら2時間以上ノンストップで運転を楽しんだのである。

 「海の日ラン」では走るという主体的行為の味付けとして音楽を楽しみ、高速道路の運転では音楽を聴くという主体的行為の付属として運転を楽しんだのである。

 それは彼女の音楽に感じる余白や余裕といった感覚がメインにもサブにものなりえるという懐の深さと通じる部分があるのではないか。

 そう考えると自家用車を手放した時の自分は単純に余裕がなくなり運転が嫌だと決めつけることによって、自分の精神のバランスを計ろうとしていただけだったのである。

余裕や余白が楽しむを生む

 自分が主体的に時間をコントロールする事のできる走ると車の運転。確かにどちらもそれぞれ肉体的、法定的に制限はあるものの速度や時間をコントロールすることはできる。でもそれが主体的になるかは別の問題である。
 しかし、それが好きか嫌いかのような二者択一の問題になるのは何とも貧しくはないだろうか。
 そんな余裕のない生活が楽しいわけがない。行動に主体性が伴わなくてもそれをどう置き換えて楽しむかは自身の余裕や余白による部分が多いのではないだろうか。そんな回路として音楽があることもすっかり忘れていたのである。
 今回のことでライフスタイルの充実はやはりこの余裕や余白による部分が大きいのではないかと改めて感じたのは言うまでもないことである。

 最後にこれでやっと今月も充実して走れそうだと思うと共に、不安も生まれた。
それは石橋さんの持ってないアルバムをコンプリしたいという衝動と共に、また自分の少ない可処分時間が音楽を聴く作業にどんどん奪われていき、本を読む時間やアニメや映画を見る時間減っていくのではないかという不安である。悩ましくもあり、贅沢でもあるのかもしれない。

 あ!

 それならば、走りながら聴けば良いのでは……

 はい、そうします。

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