ウィキペディア漫遊:記事に触発されて

3回目のワクチン接種後、38度の熱を1日さまよい、明けて日経を読んでウィキペディアを漫遊しています(笑)。以降、ウィキペディア抜粋(一部編集)。

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夏王朝。禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。

桀王は暴政を敷き、その治世はひどく乱れた。これに対し、殷の湯王(契から数えて13代目、天乙ともいう)は天命を受けて悪政を正すとして、賢人伊尹の助けを借りて蜂起、鳴条の戦で夏軍を撃破し、各都市を破壊、こうして夏は滅亡した。現代の考古学調査によると、夏の都市のひとつであった望京楼遺跡では、殷による激しい破壊と虐殺の跡が見つかっている。遺骨の多くは手足が刃物で切断されたり、顔が陥没しており、実際には殷が力によって、中原の支配者の座を勝ち取ったことがしのばれる。遺跡からは夏人のどれも毀損された遺骨と共に殷の青銅の武器も出土する。

殷(商)王朝。王祖乙は賢人巫賢を任用し、善政に努め、殷は再び復興した。殷は占いによって政治を行い、その為に多数の殷以外の他の部族から見せしめ的に要求された人身御供が必要だった。

『史記』によれば殷末の帝辛は凶悪な暴君として知られ、重税を課し、諫めるものを殺し、先祖を祀るのに生贄として多くの人間を殺したために民衆は殷の支配を嫌うようになった。また、殷末期には外征も行われ、諸侯は次第に殷を倒す密議をするようになった。

このような恐怖政治は他の多くの部族の反感を買い、やがて、周や微など東西南北の8つの従属国家が密かに連絡を取り合い、連携し、やがて紂王が東夷の征伐に乗り出した隙をついて、反乱、牧野の戦いで殷軍を撃破し、王朝は滅亡した。

周王朝。当初は殷(商)の従属国だったが、紀元前1046年に革命戦争(牧野の戦い)で殷を倒し周王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都までを西周、遷都から秦に滅ぼされるまでを東周(春秋戦国時代)と区分される。儒教において西周は理想的な時代とされる。中国文明は周代に確立したという学説もある。西周・東周の両方を合わせると中国史上最も長く続いた王朝である。

康王(在位:前1020年 - 前996年)は召公奭と畢公高を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。

5代目の穆王(在位:前976年 - 前922年)は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった。

9代目の夷王(在位:前885年 - 前878年)までの王は影が薄いが、この時期に礼制が改められ、王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た。しかし、夷王は紀侯(中国語版)靖公の讒言を信じて斉の哀公を釜茹での刑(烹)に処しており、その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていった。

10代厲王(在位:前877年 - 前841年)は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在のあいだ、周定公と召穆公の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。ちなみに、現代において英語の「republic」を「共和制」と訳すのは、この故事を由来としている(共和制#語源・用法)。なお、実際は「共に和して」ではなく、「共伯和」という名の人物(「共」を封地または諡号として「伯」の爵位を持つ「和」という名の人物)が執政したので、それを略して「共和」と呼んだ、という説もある。

携王(在位:前770年 - 前750年)が即位した。これに反対する諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を平王(在位:前771年 - 前720年)として立てて対立した。周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行する。

諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。周王室側も覇者をはじめとする諸侯に対して、西周以来の伝統と権威を強調することで祭祀を主催する立場の維持を図った。孔子の登場以降、西周の時代を理想化した礼制の整備が儒家や諸侯によって行われていくが、それらに対して周王室は全く主導権を発揮しておらず、祭祀を主催する立場すら失っていた。

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わたしは学校で全く勉強しなかったので、久々に文字の中に浸りちょっとした満足を得た次第。それにしても、今に当てはまる事例の多いことよ。暴虐が暴力を呼び、暴力によって得た権力も善政により安定して、やがてまた、暴虐に陥る。この繰り返し。

私の知る限り、世界中の国や地域の歴史は同様の繰り返しを行っていると思うのです。今回も欧州の東で惨いことが行われ、その指導者を支持する向きも現れ、広がりも見て取れる。これは、今回漫遊の中のどの位置に相当するのか。

民主主義・自由主義が、格差を放置し富めるものがその権威を固定化させており、深い恨みが沸騰する時期と重なるのか。

禹の時代も周の時代もよくわかりませんが、よかった時代があるのだといいます。

民主主義・自由主義・資本主義の良かった時代とは何だったのか、それはこれから現れるのか。よい時代は再び現れることはないのか。

国連も別枠の組織を目指すようになるのでしょう。そうしなければ世界の安全保障を根本的に安定させることはできない。ただ、安定に必要な構造に「自由・民主主義」があってほしい。少数の強力な権力による「絶対的な」安定であっては困るのです。それは、やがて暴虐に陥ることが明白なのですから。

#日経COMEMO #NIKKEI

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