不満より「どうすべきか」を論ずるとき

記事にある、「・・・プラトンは民主主義を厳しく批判した。『民主制は必ず衆愚政治に陥り、過度の自由に疲れた民衆は独裁者を連れてくる』という・・・」文に、ひざを打ちました。

それは、記事にある通り、「・・・政治はプロの政治家が独善的に進め、市民は不満を言うばかり・・・」だからだろうと思うのです。

民主主義が崩壊

しようとしています。

「どうしたいか。どうあるべきか。なにができるか。」

を話し合いたい。

そうしなければ、テクノロジーの発展に伴って、「一つの価値観でまとまる」社会が出来上がってしまう予感がするのです。

フランスの実験。「全国から「くじ引き」で選ばれた市民150人」が課題を議論する試み。私の調査不足で批評できる段階にありませんが、アイディアとしては秀逸と思っています。

どんな人にも「全体への責任」があります。全体が個をまとめる前に、個が全体の方向性を定めることが大切。全体しか残らない社会では、個はパーツでしかなくなるのです。それでいい、という人もいないわけでもないのですが、個の意思は尊重されず、全体の意思のみが重要となりますから、それを肯定したところで、個は省みられません。省みられないことに不満を覚えても ”後の政(マツリ)” なのです。

発展するテクノロジーで「個の意思」を表明

し、全体へのとりまとめがスムーズにいくことはできないか。

全体が決まれば「説得・納得」で、個が自身の意思で全体に協力

できる社会構造にできないだろうか。

紀元前5~4世紀は、現在まで続く哲学・宗教を開く人が多くいたと聞いています。全体の捉え方や全体と個の在り方など、その時代で解決しようとした痕跡を、もう一度、丁寧に拾い集め、この時代にプロットしてみるのも手法の一つなのでしょう。その上で、テクノロジーで点と点を線で結んでみれば、その先の

あるべき姿

が見えてくるのかもしれません。

#COMEMO #NIKKEI

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