いよいよ、世界は、全体 対 個 へ

2000年前半まで、個を重視する文化が優勢でしたが、2020年代から全体を重視する文化が優勢になろうとしてる、と解釈しています。

思想として左右ありますが、括れば "全体主義"。対して、個人を優先する "自由主義"。

全体で幸福を追求するスタイルと、対して、個人が感じる幸福を大切にするスタイル。"全体の幸福優先" ≒ "個人の幸福" ともいえず、"個人の幸福優先" ≒ "全体の幸福" とも言えない。今からは、"全体の幸福優先" の流れが加速する予感がします。

全体の最小単位は "家族"。次に "地域"。次に "国"。そして "民族" や "宗教"。忘れてはいけないのが "基軸通貨"。

では、"全体の幸福" とは、何か。

「自己を表現する "全体" が消滅しないこと」を、"全体の幸福" として定義してみます。最小単位から拡大した全体まで自己として表現できます。

当然、自己は様々な種類に分類されます。最小単位は膨大な種類の数となります。ですが、拡大した自己は、数十種類以下程度にまで絞り込まれます。全体をどこまで拡大し、自己として表現し幸福を追い求めるのか。

自己を消滅させないために、過剰なまでに防衛に走る。同質ではない存在を排除し、自己が存立できる環境を力づくで作り上げようとする。成功すれば、それが自己の幸福であり、全体が幸せに包まれるという考え方。

一方、"自由主義" は、行きつくところ一人の幸福を追求するので、全体の最小単位である "家族" も必要としない。ですが、生まれたてや介助が必要な状態のニンゲンは誰かに養ってもらわなければ存立できません。よりどころは、"地域" か "国" か "民族" か "宗教" か はたまた、"基軸通貨" か。自律・自立した個人が幸福を追えるようになるまで、全体のお世話になるのです。

当然ながら、全体は個の集まりで成り立ちます。全体を自己として表現するも、個の集まりであることの自覚がなければ、自己として存立しない。

この全体と個がどちらを優先するか反目し始める。

”自由主義” を追求してきた先進国は、全体優先へ流れを変えつつあり、グローバルサウスと呼ばれる自己は、全体を最優先にする。その自己同士、同質となりうるのか、互いに探りを入れつつ排除の論理を組み上げようとしている。

どの自己が幸福を得られるのか。

老いた "自由主義" の行く末が、殺伐とした世界を作ってしまう。そうならないように、ひたすら祈るのみ。

#日経COMEMO #NIKKEI

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