人間の成長と五輪

昔から「五輪は公共事業」という側面があります。
だから、何某かの変更があると大騒ぎになる。結局、まわりまわって税金で対処することになるです。

そもそも、五輪ってなんでしょう。「スポーツの祭典」だったと記憶していますが、もはや、「国威発揚競技」としか映らない。選手をアバターにして、国々が仮想の戦争をしているようにも見えるのです。私だけでしょうか。

だから、ルールが厳格化していき、今日のロシアを見るようなことが発生します。そして、政治利用の挙句、ボイコットなどもあり。私の世代は、モスクワとロスアンジェルスが記憶にあるのです。

どちらにしても「スポーツの祭典」からは、程遠い。本当は、選手がめいめいに集まって、4年間の集大成をぶつける場。選手と応援・支援者が手を取り合って、成長を喜び合う場。そして、強さの秘訣を共有する場でもあるはず。

人間はどこまで成長できるか。それを体現できる場でもあるはず。大会運営が精神的に成長していない現状では、テクノロジーに後押しされた五輪であっても、その違和感を払拭できないのです。


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