ぼくには忘れられない、ゴルビーとチェルノブイリとバルト三国

ゴルビーがいなければ、グローバリゼーションはあり得なかった。けれども、ゴルビーは "ソビエト連邦の統率" のために、保守派(ソビエト連邦共産党左派)とバランスを取らなければならない苦渋の決断がいくつかあった。

就任早々に発生した「チェルノブイリ原発事故ー1986年」。グラスノスチ(情報公開)を推進していたが、事故の全容を公開することは保守派の抵抗で政治的に困難であったという。

ソビエト連邦を民主的な方向へ「再(ペレ)構築(ストロイカ)」する方針も、ソビエト連邦あっての政策であって、反目しあう保守派と改革派が内在する状況で進めなければならなかった。ただ、改革派の主張は市民を動かし、連邦を構成する様々な国で民主化運動が高まる。保守派は存立の危機にあった。

ゴルビーは不安定になりがちな連邦を取りまとめるためにソビエト連邦の軍事力の安定維持を目指す。それを保守派は利用し、民主化運動を力で抑えようとする。

1990年、ソビエト連邦下のバルト三国のリトアニア共和国は最高会議で民主的な選挙で選ばれた代表が独立宣言を行った。1991年、事態を収拾するためにソビエト連邦軍を非公式にリトアニアに投入。市民が死傷する流血の事態となり、ゴルビーのペレストロイカは信用を失う。

この事態で西側のソビエト連邦民主化の期待はトーンダウンした。その西側の期待を一身に受けた政敵であるエリツィン氏に追い上げられ、ソビエト連邦の統率役を下りることになる。

どの時代でも、対立する集団の間に立って全体を統率しなければならない歴史があって、そのバランスが一方を指し示すと、革命という名の中で全体が変化していく。ただ、バランスを取ろうとした人物は英雄にはなれない。敗北を一身に背負うことになる。

「欧州共通の家」を目指したゴルビーは、今日のロシアの暴走を止めることはできなかった。ロシアの人々の中に「君臨するロシア」がある限り、共通の家を建てることはできないのだろう。

(ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフさん、本当にお疲れ様でした。世界を見守ってほしいと願っています)

#日経COMEMO #NIKKEI

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