終ったので書くけれど

安らかに眠ってください。

日にちを決めて大勢が弔うという方式。だとすれば、弔うことを引き上げる日時も決まるということ。私の場合、弔う日時は特定していません。その時々に、その人が頭の中に現れ、会話し自然と立ち去る。その時間が弔いとなります。

人の評価は、何世代も後の人に権利があるのかもしれません。

どれだけ、全体に影響を与えたのか。その影響の余波が次世代の評価軸になるのでしょう。現世代のさざ波の中では評価は定まらない。それが、わたしの感想です。

奇しくも、世界に影響を与えた海洋王国の女王の弔いも重なりました。

比較する。そういった事柄にも、波が立ちます。どちらが優れているのか。どちらが弔いとしての形が際立っていたのか。泣き崩れる人、黙ったまま立ち尽くす人。参加する人々の形は違えども、弔う気持ちは等しい。

更に、「ただしく弔わなければ罰が当たる」と普通の人々を不安にさせる集団もいる。「こうすれば、あなたには罰が当たらない」と、集団が編み出した善行を勧める。拒めば、悪口雑言で呪われる。

今後も、全体が弔うという形式は続くのでしょう。

形式や日時に囚われすぎれば、呪術に巻き込まれる。吉凶で弔う気持ちが失せてしまう。罰を受けないようにするだけで、心がいっぱいになってしまう。

わたしは、弔うのは一対一だと思っています。それは、時と所を限らない。だから、静かに向き合える。あえて言うなら、それが弔いの形。

秋から冬は、一対一で向き合いやすい季節です。わたしの頭の中にあの人は現れてくれる。色彩豊かな枯れゆくなかで、ゆっくりと語らいたい。そう思うのです。

#日経COMEMO #NIKKEI

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