人間としての、報道・SNS。どうしてそうならない・・・

「特別な存在だから、こうあるべき。”逸脱" していると感じるから、叩く。特別な存在だから、叩かれても当然。こちらには "叩く権利" がある。」

心理的には、こういった論理で "成敗" し、それに共感して拡散する。のみならず、経済効果を見出し "荒稼ぎ" する。

叩く側も叩かれる側も同じ人間」。おなじ痛みを持つ

「特別な存在」などない。「特別」でなければなにがあるのか。それは「役割」である。「役割の未達」があったとすれば「諭す」ことで対処する。「役割の重さが苦」であれば「役を下ろして軽くしてあげる」ことが "やさしさ" なのだろうと思う。「役」は誰もが担う事。だから、"やさしい" は "お互い様" となる。そして、できる範囲の役割を担ってもらう。

人間に備わった "義務" とは、「役割を担いあう」ことに他ならない。互いに諭しあいながら、やさしさで慈しみ(うつくしみ)あいながら、役割の過負荷を無くしていくこと。それが、社会性のある人間のあるべき行動なのだ。義務を果たさなければ権利もない

叩かれる側の悲痛な訴えを聞き逃してはならない。叩く側の "叩いた痛み" も無視してはならない。痛みをわかりあえる社会とならなければ、人間を逸脱した魑魅魍魎・鬼の社会となってしまうのだ。

鬼から人間に戻すことその役割を担うのは、私たち人間なのである。

#日経COMEMO #NIKKEI

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