過疎の土地、どこへいく
国が引き継いでほしいと願いつつ、ふっと、昔の写真があったのを思い出し・・・
どうも、この茅葺の家が江戸時代くらいから続いた母屋で、右端にあるのが次の世代の母屋で、真ん中にあるのが若夫婦(私の両親)が住んだ家。ぼくは、ここで赤ん坊を過ごした。真ん中の家は、改築後、ぼくの隠居家となる。
茅葺の改修は記憶にない。生まれる前の気がする。父の末弟(ぼくの叔父)が高校生になるころ、私の祖父が頑張って二階屋に改築したとのこと。
今年の台風14号で、自宅周辺でかなり被害が出た。本当は8~10年おきくらいに榾木として伐採しなければならない椚を、30年以上放置して大木化した木が台風の強風で倒れた。電線をなぎ倒し2~3日停電。暗闇の下で「隣の二階家が倒壊したら・・・、そして、そこに人がいたとしたら・・・」と思いを巡らし、ずっと逡巡していた二階屋の解体を決心。両親がなくなる時に残してくれたお金を資金にした。わずかだったので、残金はほとんどない。
2日から3日で解体終了。重機の威力はすごい。頭の中では2~3週間を描いていたが、あっという間だった。跡地には、江戸時代の農家母屋の痕跡があった。写真の右側(ブルーシートの掛け始め)のところは馬小屋(昭和に入って牛小屋)で、ブルーシートがかかっている道に面したところは紺屋の跡。
馬小屋に藁を敷いて糞尿を合わせて紺屋に落とし、発酵させて道から田畑へ運ぶという仕組み。紺屋の由来は、藍(おそらくタデアイ)葉を甕に入れて発酵させる場所だったから(と、うっすら記憶が残っている)。
そして、味噌。これも自家製でここで発酵させていたようだ。発酵させるものの安置場所だった。その上に茅葺の母屋が立っていた。奥の細道「蚤虱馬の尿する枕もと」そのままの家だったということだろう。
ここからは、因みの話。
昭和40年代だったと思うが、農業促進事業の土地改良で圃場基盤整備が行われた。その前の田園風景とその後の過疎化し耕作放棄地が点在する田園風景。
その前の田園は、斜面に沿って無理のない圃場を展開している。基盤整備後、祖母は「こげんギシんたけぇ田にしち、どげぇすんのかぇ。草切りしきらんじゃねぇかぁ」と子供(整備を決めた父)に喰ってかかっていた記憶がよみがえる。
明治生まれの祖母の身長は、140cm前後だったと思う。この人は、10以上の子供を産んだと父が言っていた。成長した子供は7人。末弟叔父が結婚するとき、長女の叔母と写真を撮った叔父(6番目の子供)以外の兄弟が集まった写真。
もう少し、遡るかな。
祖父と祖母は、この頃結婚したようだ。いとこ同士だった。
そして、戦争がはじまり、祖父の弟は、テニアン島に軍属として赴任。妻である大叔母と一緒に住んでいたが、戦局悪化のため先に内地へ戻し、その後に大叔父は艦砲射撃で亡くなったと聞く。遺骨は戻っていないと聞く。
ぼくは、このことを記憶していた。二十代のころ、初めての海外旅行はサイパンだった。冒険のつもりでパックだが一人で参加。だが、記憶があいまいでテニアンとサイパンの違いも分からず。遺骨を収拾する方法も知らず、浜に打ち上げられた骨のようなサンゴのかけらを持ち帰ったのみ。
どこの過疎地にも同様の時間が流れている。明治から令和に至るまで、国の政策に準じて生きてきた。その軌跡の一例である。
そして、ぼくと兄。
兄は跡継ぎとして精いっぱい頑張った。残念ながら体を壊してグループホームで療養することに。ぼくは41歳でUターンして今日に至る。
台風が来なければ、解体の決心は無かったろうと思う。なんだか、粘りつく記憶が決心させないのだ。「罰があたる」と恐れているからか。もう、先祖の思いを断ち切るように解体した。ぼくの次の世代は、きっと、ここに住まないだろう。
この土地は集落は過疎地はどこへ行くのだろう。老いていく自身と乾燥し始めた冬の強い風にさらされた思いは埃のようにあてもなく舞う。
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