世界の過疎地に蔓延る 地獄の黙示録

ちょっと、おどろおどろしいタイトルになってしまいました。フランシス・フォード・コッポラ監督による映画ですが、原作とされるのが1902年に出版された「闇の奥」という小説。人目に付きにくいところで何が行われているか・・・ここからは、私の妄想。*****

経済的植民地に治外法権地域(自由国)を作りこむ。ニンゲンの欲望を坩堝にして富を溶かし、支配者の思うままに型を作りそこに流し込む。亡骸のようになり型となった囚われた人々。そこに自由はない。

型になってしまった人々は「富を手に取ることができる!」という触書を信じて苦難を乗り越えて治外法権地域にたどり着いた。支配者が役人に近いニュアンスで触書を配布しているので信用されたのである。

夢を見つつ、正体のはっきりしない大きく重い不安を抱えて足取りは軽くない。だが、もとに居たところには戻りたくはない。息絶えるまで貧しい生活の中に身を置くのは御免蒙る。一息に幸せになりたい。自由になりたい。その一心でたどり着いた憧れの地だ。

目的地が近くなればなるほど、並んで歩く人の数が増えていく。皆、無口だ。だが、どこか、芯のある瞳を持ち合わせている。同じ思いなのだ。そう感じる。

富を持つ者は「もっと、経験をしたことのない境地へ」と欲を膨らませる。あるものは配下を自由に操り思い通りの結果を得られる境地、あるものは目に映るモノ聞こえるモノ味わえるモノ触れるモノ・・・モノのすべてを手にできる境地、あるものは強大な危機を乗り越えられる境地、あるものは自身が人知を超えた存在に成り得る境地、それらの境地に至りたいと願いを持つ。

仮想であってはつまらない。ホンモノでなければ境地に至れない。ホンモノではルールに反する。犯罪者となる。そうならないトコロはないか。大枚を叩いて探索するのだ。


「幸せになり "たい"」「自由になり "たい"」と「境地に至り "たい"」の各々の欲が自由国で一点となる。"たい” を型にして、それに欲を流し込む。

だが、型の原料は自由国にはない。自由国では、「多くの資金」をつぎ込んだ者と「わずかな資金」しか用意できなかった者たちに分かれる。「多くの資金」をつぎ込んだ者のために "たい" を実現する。そのための型の原料をどうするか。自由国では「わずかな資金」たちをまとめて原料に加工する。そのことで「多くの資金」をつぎ込んだ者へ「(ホンモノ)品質」を示し、信頼 を得るのだ。

型にするために原料を圧迫する。その圧迫に抗うものは除かれ廃棄される。近くに堀のように流れる川があればそこへ、断崖絶壁の海岸があればそこから、廃棄されるのだ。

型には性欲を満たすモノ、食欲を満たすモノ、思い通りに危機を乗り越えられるモノ、支配欲を満たすモノ、およそ欲と言われる様々な型が存在する。

「多くの資金」をつぎ込んだ者は、その期待で熱を発し欲をドロドロに溶かしていく。自由国の支配者は頃合いを見て、溶けた欲を選別した型へ流し込む。猛烈な熱で型は地獄を経験する。逃れようにも逃れられない。欲が飽きて冷えていくのを待つしかない。

溶けた欲は冷めていく。支配者は頃合いを見て型をひっくり返し欲を引き離す。その後、欲は適温で元の 自由に形を変える存在 に戻っていく。支配者は「多くの資金」をつぎ込んだ者へ大切に欲を返す。心地のいい適温の欲は元へ落ち着き「多くの資金」をつぎ込んだ者は 爽快感 の中で帰国していく。

なんどもなんども高温の欲を流し込まれた型は傷んでいく。劣化したと判断されれば、打ち壊され、圧迫に抗った「わずかな資金」の末路へ運ばれていく。

堀のような川や断崖が波に削られるところに、灰がただよう。はじめて「自由になった!」と喜んでいるように浮いたり沈んだりしている。

*****

わたしは "欲" を否定する者ではありません。ニンゲンは、大きな欲も小さな欲も "交換" し、そして、互いに "欲の実現" という ”お返し" を繰り返す。そうしたイキモノだと思っています。

ですが、大きな欲の達成のために小さな欲が多数利用される。大きな欲の実現だけが強いられ小さな欲が実現できない、そんな世の中にならないために "国" が存在し、社会という "ルール" があるのだと確信しています。

ルールを越えて欲を実現させる場所。それが、世界の過疎地であってはならない。過疎地に住む私は、強く強く思うのです。

#日経COMEMO #NIKKEI

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