なぜ「教育論議」はすれ違うのか(1/2)
気付けば卒業・帰国から2年。日本では引き続き教育に関する仕事をしており、職場の人やカウンターパートはもとより、学生時代の同級生や、まったく異なるバックグラウンドの人と教育について話す機会が増えています。「アメリカで教育の勉強をしてきました」というだけで、なんとなく、話をしてみよう/聞いてみようと思ってもらえるのはありがたいことです。
他方で、様々な立場の方と話をさせていただく中で、改めて自分の中で浮かんできた疑問があります。それは、
なぜ「教育論議」はすれ違うのか
ということです。
帰国してから話した方々と議論がかみあわなかった、と言いたいわけではありません!笑(もしかみあわなかったとお感じの方がいらしたら、それは自分が学んできたことを伝える力や、理解力などのキャパシティが不足していたのだろうと思います…)
しかし、ある意味面白いなと思うのは、「教育が大事」ということについてはみんな全く相違がないにもかかわらず、「日本(世界)にはもっとこういう教育が必要だよね」という方向性については、だれ一人同じものがないことです。同じ地域で似たような学生時代を過ごしてきた人たちの間ででも、です。
もちろん、教育論議に限らず、フリーディスカッション一般論として、「意見の一致」を目指す必要はないし、違っていて当たり前だと思います。人の意見を変えるより、一緒に具体的な変化を起こしていく方が大事、という2019年卒業式の学長の言葉は今でもよく思い出します。
また、議論を通じて正解や結論が出ずとも、「自分は何を達成したいのか、何を求めているのか?」といったことについて、自分の考えを深めるきっかけにできれば、それもまた十分価値があるということも、2年間たっぷり学びました。
ですので、べつに教育論議で毎回「話が合うね~!!」とならなくてもまったく構わない…のですが、一方で、
「『教育』とは誰のどんな活動を指すのか」
「教育を変えるには、世の中のどこをどう変えればいいのか」
といったことについて、様々な視点があることを共有してからでないと、多角的な議論を通じて自らの考えを深めていくこともできないのではないか、とも最近思っています。
ということで今回は、(全く学問的な裏付けもない、ただの自分の経験ベースのものなのですが、)教育論議で話がかみあわなくなりやすいと感じる8つの「議論の軸の違い」について書いてみました。
一番の原因は「教育の目的」の違い
この記事のタイトルを読んで「目指すものが違うからでしょ?」と即座に思った方もいらっしゃると思います。その通りだと思います。
語学力や論理思考力など基礎的なスキルを伸ばすのも、
自発性や自制心、「やり抜く力」を鍛えるのも、
他者を理解しリスペクトする心を育むのも、
身の回りの人と協力する術を学ぶのも、
一人ひとりに固有の個性を発見して開花させるのも、
全力で充実した青春時代を送ってもらうのも、
資本主義社会で「メシが食える力」を授けるのも、
学問を追究する知性・知的好奇心を刺激するのも、
シンプルに「行きたい学校に行けるように準備する」のも、
文化芸術をたしなむ心を養うのも、
子ども一人ひとりが自立する力を身に付けるまで伴走して支えるのも、
災害や犯罪被害、疾病などから身を守る力を蓄えるのも、
世界・地域の文化や自然を味わう体験を積むのも、
社会課題・地域課題を自分事として捉え、その背景にある構造を掴めるようにするのも、
全部「教育」です。
しかも、例えば「身の回りの人と協力する術」と言ってみたところで、具体的に何が必要と考えるのかも、人によって全く違います。とにかく人見知りなく他人と話せることが一番大切だ、と考える人もいるでしょうし、ロジカルにグループ全体にとって必要なことを考えて自分の役割を設定する…みたいなことが思い浮かぶ方もいるでしょう。
さらに、それを「どうやって伸ばすか」というのも、人によって大きく考え方が違います。「やり抜く力」を鍛えるために、「とにかく辛いことも我慢して何かをやりきる経験が大事だよね~」という方も、「『好き』『好奇心』『夢中』が最強である!」という人も、どちらも同世代で出会ったことがあります。
実際に教育論議をするときに、「目的の違いをクリアにしないとね~」と言うのは簡単ですが、上記のようなものの見方は、ほとんど無意識に個々人に根付いているので、なかなか、その違いをすぐに言語化するのは難しいように思います。しっかりと時間をかけて、一人ひとりの原体験や思いを紐解かないと、真にクリアになることはないでしょう。
…ですが、大半の教育論議はそもそも、そんな深い話に行き着く以前にすれ違っている、というのが私の最近の感想です。
深いところで違いがあるのは、教育が人間の営みである以上、ある種当然だと思いますし、簡単に同じになるなら、教育哲学という分野は必要ありません。
ですが、それ以前の、言葉の定義の問題とか、どんな状況に置かれた子どもの話をしているのかとか、そういったことを共有しないまま、あれこれと ❝教育❞ について話し合うのは、単純に時間がもったいないことです。「オレンジはビタミンCが豊富」「いやリンゴの赤は綺麗」みたいな話をしているようなもので、どっちも全然間違っていなくても、果物の本質について話を深めることはできませんし、評価軸が違えば議論は混乱します。
「目的」のすれ違いにせよそれ以外にせよ、教育論議でのよくあるすれ違いは、以下に大別されるかと思います。
すれ違い①:着目するライフステージの違い
まず、どのライフステージに注目するか、というのは、けっこう人によって違います。これはまず、「幼児期の教育が何よりも重要」「中学生になったら学校がしんどくなった」みたいな、子ども時代のライフステージの中でどこに興味があるか?という違いがあります。
もっと大きな違いとしては、「大人になったらこういうことが必要だから、子ども時代にこれを先どっておかないと」というタイプと、「充実した子ども時代のために何が必要だろう」というベースの間の違いがあると思います。前者は「逆算思考」「バックキャスティング」と呼べるかもしれませんし、後者は「積み上げ式」「フォアキャスティング」と言えるかもしれません。
どちらのアプローチが正しい、ということはないと思います。例えばですが、「逆算思考」の人は、「大人になってから役立つものをあらかじめ教える」という、教育の素朴な理念に即した議論が得意だと思います。
他方で、「大人になったらこれが要るだろう」を考える時は、無意識のうちに、自分の社会人経験に基づいたものに偏る、というのも正直事実だと思います。偏っていても別に構わないのですが、「公教育全体」で必要なものを議論するのには向かないでしょう。
また、議論の対象となるライフステージは「大人になった時」という形で明確ですが、その分、教育コンテンツを「子ども時代の中でいつ、どうやって教えるのが適切なのか」という議論は後回しになりがちです。
また「不登校」など、子ども時代のライフステージ特有の問題は、この思考法だと抜け落ちることもありますね。
では「積み上げ式」の方がいいのかというと、やはりこれにもメリットデメリットがあります。「子どもが全力で取り組めることをデザインする」というのは、教育の最もクリエイティブな領域だと思いますし、それがなければ子どもが「学び」を自分自身のものにしていくことはきっとないと思います。「充実した子ども時代」というコンセプトに基づいた考え方ですから、子どものライフステージのことも自然と考慮されるでしょうし、例えば不登校の子どもをどうやって支えるか、といった点も視野に入ってくるでしょう。
このように「逆算思考」の裏返しのメリットがありますが、同時に、裏返しのデメリットもあります。子ども時代の興味関心、悩みや葛藤に寄り添った教育活動が、「社会に出た時に役立つものになっているか」という観点は、「積み上げ式」だけでは十分に出てこないかもしれません。また、「子どもはこういうことに興味関心があるだろう」という仮定が、無意識に、自分の経験に引っ張られるというのは結局同じです。
100%の「逆算思考」か、純粋な「積み上げ式」か、という話ではなく、多くの方はその両方を取り入れているのだと思いますが、自分が話すときはそれぞれの思考法のメリットデメリットを把握して使い分ける、相手が話すときは相手の思考のベースを理解する、ということなのだろうと思います。
すれ違い②:「誰のための教育か」のすれ違い
「いつ」の次は「誰」です。教育はみんなに必要なものなんだから、対象は全員、という前提で話すことが多いと思います。ですが、教育論議で最もありがちなのは、
という論法だと思います。
これが全面的に悪いとは思いません。素朴な原体験から議論がスタートできるのは、教育というトピックのいいところだと思います。(私もそういったところから教育に興味を持ったと思いますし、スタンフォードの教育大学院にもそういう人はたくさんいました)
「理屈っぽいことより、会社での人間関係の立ち回り方やマナーのほうが役に立つ」
「アメリカで会話に困らないよう、学校の英語ではスラングもたくさん教えてほしかった」
「d.schoolのようなデザイン思考の授業をしてほしかった」
どれもごもっともです。
ですが、それを「日本の教育」の課題と言えるかというと、考えなければならない点はたくさんあります。
例えばですが、経済産業省のある資料によれば、「正社員になり定年まで勤めあげる」という生き方をする人 は、1950年代生まれでも34%しかいませんし、1980年代生まれでは27%にすぎません。「会社という組織でどうふるまうか」を、仮にうまく学校で教えられたとしても、7割の人は「あれは役に立たなかった」となりかねません。
スラングやデザイン思考も同じことで、「教えてもらえれば助かる」人はたくさんいるでしょうが、「大人になってから、海外でスラングも交えて英会話を楽しめないといけない人」は相当少ないと思います。(雑談からプレゼンまで高い英会話力が試される場所と言えばMBAかもしれませんが、ある調査では、海外MBAに行く人は年間300人ほどです。)デザイン思考の根本的な考え方が活きる職種は多いでしょうが、それがd.school式であるかどうかは、好みの問題でしかありません。(私は正直大好きですが笑、それは別に「日本全国でやろう」という理由にはならないと思っています。)
すれ違い③:「個人のため」か「社会全体のため」か
「ちょっと待った、ハイレベルな英語学習やデザイン思考は、全員には必要ないかもしれないけど、世界の最前線で活躍する日本人を輩出するためには当然必要なんじゃないの?」
と感じた方がいらっしゃると思います。それもまた教育論議の重要な観点であり、大きな「すれ違い」ポイントかもしれないと思います。
これ(世界で戦う人材が必要→教育が重要→学校が大事)についてしっかり論じるためには、かなり様々な論点をしっかり吟味することが必要なのですが、とりあえずここでは、
「日本人が世界の最前線で活躍する」ことは、社会にとっての利益か、個人にとっての利益か?
という点を挙げたいと思います。
仮に、活躍するその人自身の「個人の利益」だとするならば、学校でみんなに対して「世界の最前線で活躍する日本人を輩出する」ための教育を行う必要はないということになるでしょう。個人にとって十分なメリットがある限り、塾なり留学コンサルなり企業研修なり、ニーズに応じたサービスが出現するので、学校でやる必要はない、という話になると思います。
しかし、日本人(に限らなくてもいいのですが)が世界の最前線で活躍することには、その人の個人的な利益にとどまらない多くの価値があります。社会をもっと便利にする発明・発見をするかもしれませんし、地球規模の課題を解決する事業を起ち上げるかもしれません。世界中で日本人の評判を世界で高めてくれるかもしれませんし、これから大人になる日本の子どもに希望を与える存在になれるかもしれません。こういった意味で、ある人が教育を受けて世界で活躍することは、何かしら「社会にとっての利益」でもある、と言うことができます。(実際のところは「世界の最前線」「活躍」の中身次第ですし、社会の利益と個人の利益はすぱっと分けられるものでもありませんが。)
では、「世界で活躍する人がある程度生まれるようにできれば、教育は成功!」と言えるものでしょうか。そういうシンプルな議論もあるとは思いますが、世界的には、教育(特に公教育)に期待されていることが、少なくとももう1つあります。それは「どの地域のどんな家庭に生まれても、教育を通じて個人の人生を良くするチャンスが与えられること」です。
こうした「機会均等・平等」的なミッションと、「トップを伸ばす」的ミッションは、常に対立するというわけではありません。多くの人に機会を与えた方が、一層突き抜けた個人が生まれるでしょうし、「誰もが突き抜けた存在を目指せる」という意味での機会均等は重要です。
ですが、傾向論としては、前者的なミッションに重きを置く人は、「ハイレベルな英語学習やデザイン思考」などにそこまで興味がないと思います。後者の立場に立てば、英語はもとより、三角関数、微分積分、日本史世界史物理化学生物倫理古典、いまより基準を下げていいものは無いでしょうし、教えるべきものはもっともっとある、という話になると思います。
「英語」「デザイン思考」といった各論への賛否をよくよく聞いていくと、こういった「教育に期待する社会的機能」の違いが隠されている、というのも、教育論議でよくある「すれ違い」だと思います。
ちなみに、この2つのアプローチの違いは、教育のみならず、公共政策一般においても非常に重要なテーマとされています。(ここで語り尽くせるトピックではないので、詳細は以下のリンクに譲ります。)
長くなったのですれ違い④~⑧は別の投稿で書きたいと思います。引き続きご覧いただけると大変嬉しいです!