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マスキュリズムと表現規制

はじめまして。私はニコニコ大百科マスキュリズムスレでマスキュリズム・男性差別論についてよく投稿しているID: K/G40xWlKJという者です。

最近はこちらのサイトでもマスキュリズムはそこそこ大きな議論になっているようですが、まだまだ諸問題について横断的に取り上げていたり、「今・法や政治の世界で」起きていることについて言及している人は極めて少ないように感じます。自分もあまり知識があるわけではないのですが、ここでは基礎的な事項を中心にマスキュリズムの思想・理論をまとめていけたらと思います。

ニコニコにおいてマスキュリズムを広めるのには相当な困難がありました。この概念を理解できる人は極めて少なく、むしろ、フェミニズム以前の時代に性意識を戻したほうがまだ理が通っている、などという主張も少なくありません。またニコニコそのものがオタク文化の影響を強く受けていることもあって、「フェミニストがしてきたように表現規制を進めるのではないか」という観点から及び腰になる人も少なくないと言います。

マスキュリズムは表現規制を進める?

しかしマスキュリズムにフェミニズムがしてきたような表現規制を進める恐れがある、ということについては、全く否定できません。このマスキュリズムという概念を日本に持ち込んだ第一人者である久米泰介氏は、訳著の一つ『広がるミサンドリー』の「訳者あとがき」の中で、有名な海賊漫画『ONE PIECE』や宮崎駿、手塚治虫などの著作にさえ男性嫌悪表現が含まれていると指摘しているほか、男性に対する性の商品化や性的消費ないし性的搾取について、手厳しい指摘をしています。

日本(日本以外でも当然)で放置されているもう一つの学問上の男性差別は
性の商品化や性的搾取である。少年や男性に対しての。
具体的に言えば、少年(論外だが)や男性を登場させているポルノ。(二次元も当然含む)ジャニーズなどの実際の人間を性の商品化したもの、悪質なもので有名なのはこの二つだが、派生はいくらでもあると考えてほしい。
自分はフェミニズムのマッキノンたちの性の商品化理論は別に正しいと思っている。性の商品化や性的搾取がそれをやられている性別にとっては不快なのは当たり前だし、それらが差別として糾弾されていくのはやむをえんだろうと思う。(対象にする側のセクシュアリティにおいては必要であっても。)ただし男性の性の商品化や性的搾取も同じように人権侵害と扱うのならば。それならば男女平等である。
問題は、日本の場合、アメリカでは気付かなかったが、男性に対するミスコンと同じような異性による性の商品化であるジャニーズなどのアイドル、またさまざまな少女漫画、レディースコミックにおける「男性の身体の性の商品化」そして近年表に上がって海外でも児童ポルノとしても男性や少年への性的搾取としても有名になりつつある異性愛者の女のポルノである。
つまり、自分や、マスキュリズムが批判しているのは、このダブルスタンダードである。
そして、「女性に対する性の商品化が批判されるべきである以上、男性に対するそれも批判されるべきだ」と言っている。
もし、性の商品化が性差別でも搾取でもないというなら、では散々男性をその件で批判してきた点を撤回させなければならないし、今後はでは女の性の商品化や性的搾取を国や公企業、政治もどんどんやっていっても問題ない、ということになる。
まあ仮にフェミニズムや女性学が何かの形で、頭を打って、方向転換したとしても、マスキュリズム側は、男性の性の商品化や性的搾取は批判するし、最終的には規制していくが。何故ならそれが、性犯罪や単純なレベルでのセクシャルハラスメント、そして構造的な男性差別につながるからと考えるからだ。これは一定の理がある。
男性への性被害は言うまでもないので、ここではあえてとばす。問題は男性への性的搾取である。
その最大かつ児童ポルノがいわゆる加害者が“BL”と呼ぶ、(この名称は男性被害者に対してのセカンドレイプであるので、基本的には使わない)所謂ゲイポルノ、中でも日本で放置されていると言えるのは児童ゲイポルノである。
奇しくも、頭のおかしい日本のフェミニストのおかげで、女側がゲイポルノ、いや児童ゲイポルノを通じて男性や少年を性的搾取することがセクシュアリティ(性欲)であるということを英語論文で輸出してくれたおかげで、だんだん海外の男性運動にも、性被害者の運動にも知られつつある。ドン引きでな。それは何を狂ったのか、千田や上野もそうであるが、これらの日本のフェミニストが18歳未満の男児が出ているゲイポルノを女は楽しんでいる、というイカレタ論文を堂々と出してくれているわけである。
奴らにはこれが男性への性的搾取であるとか、いや少年への性的搾取であるという視点も、男性の性被害者がこれらでどう苦しむかという視点もない。ただ、男を性的に加害するのは(加害という自覚もないだろうが、だから正々堂々と英語論文で出してしまっているんだろう)楽しい、女の権利だ、のようなことを抜かしているのである。この手の論文が1本や2本ではない。

特に今年に入ってからは、ツイフェミによって炎上した環境型セクハラ論やラブドール規制論が、そっくりそのままマスキュリズム側によって再炎上する、などということが相次いでいます。いずれも発端となったアカウントはマスキュリズムの人ではないのですが、一定の賛同をマスキュリズム界隈から得たのは確かです。

ここまでの現状を鑑みるに、「男性に対する蔑視表現やポルノ」への表現規制に賛同することが、マスキュリズムという思想の「踏み絵」になっているとは、確かに言えると思います。

こんなことがあっていいのか

しかし、男性差別に苦しんでいる人の中には、そんな規制まで望んでいないという人も多いと思われます。そういう人はマスキュリズムから退くべきなのでしょうか。オタク対フェミニズムという構造が激化していく中で「オタクでありフェミニストでもある」という論客が出てきたように、「オタクでありマスキュリストでもある」という考え方も、少なくとも私はあってしかるべきだと思います。

ここでポイントになると私が思うのは、二次元オタクの中では少数派になりますが、女からの性的暴行によって少女しか愛せなくなった、二次元しか愛せなくなったという人もいるということです。少し古い例ですが『電波男』で有名な本田透氏なんかがそうだったと思います。久米氏などマスキュリズム主流派は、彼らを見殺しにするのか、といったところが、表現規制論への反論の切り口になるのではないかと思います。

表現の自由は盾にできるか

ただ、「表現の自由を盾にする」という戦略は、私としてはよろしくないと考えています。これは表現の自由が男女ともに認められた権利であるというところが大きく、マスキュリズムとして相対的に積極的な擁護ができるものではないのが大きな理由です。

詳細は次回以降に話しますが、日本にはまだまだ、女性だけに認められ男性に認められていない権利がたくさんあります。レディースデーなど商業面の優遇や女性専用車両もそうですが、性暴力被害とそのケア、父親育児のための権利や離婚時の親権、母親ないし姑から息子への虐待からの保護など、法律や社会意識の中の問題も多く含まれます。マスキュリズムはこちらの問題解決のほうに多くリソースを割かねばなりません。マスキュリスト主流派の表現規制論だって、フェミニストが女性に関する表現規制を訴えているのにもかかわらず、男性に関する表現については強く称賛しているという前提があるわけです。

実はそこまで時間はない

とはいえ、マスキュリズムの、表現規制反対派またはオタク文化擁護派は、この主流派の表現規制論に対抗する理論をしっかり固めておかなければなりません。ただ、長い時間をかけて議論するということも、実は難しくなってきています。一つの区切りになるのは、来年の通常国会で、「刑法改正案」が提出される時です。詳細は次回説明します。