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エヴァンゲリオンからの卒業式

※以下ネタバレ含む

僕はエヴァンゲリオンについてはリアルタイム世代ではないのだが、訳あって不登校で引きこもりだった中学時代に貞本版エヴァを読んだのがエヴァとの最初の出会いで、その後TV版、旧劇と観ていった感じだったと思う。当時の僕はかなり荒んでいて対人恐怖、また視線恐怖の症状(これは今も続いている)が出はじめていたのでシンジのメンタリティに自分を重ねている部分があり、かなりのシンクロ率の高さ、熱量を持って後追いなりにエヴァの世界に入り込んでいた。エヴァ関連の昔の書籍や文章(竹熊健太郎やら東浩紀、斎藤環、伊藤剛、浅羽道明)なども読んでエヴァって凄かったんだなあと、既に終わってしまったコンテンツに憧れにも似た感情を寄せていた。

なので新劇が始まった当初はかなりの喜びを持ってその展開を楽しんでいた。序が始まった時は新たなエヴァをリアルタイムで観れることに興奮した(新劇の序の公開が始まった2007年なので当時は17歳だったはずだが、それから最終作までよもや14年の歳月がかかるとは露とも思っていなかった…)また破を観た時は鑑賞後あまりにも気分が上がってしまい、すぐに秋葉原でリボルテックのエヴァを買っていた。だがQの時は流石に庵野秀明の私小説的すぎるように思えた(実際、後々分かった古巣のガイナックスとのいざこざによる庵野の気分が反映されすぎているから本当にプライベートフィルムだったと思う)し、無理やりこれが本来のエヴァだ!といって褒めるのは何か違うなあと思って徐々に新劇エヴァへの熱は下がっていった。

それから8年以上が経ち、時は2021年。僕は31歳になっていた。

エヴァに対する思いや熱量は殆ど無に等しかった。月日の流れなのか僕自身のエヴァへの興味がQで完璧に無くなってしまったのか、とにかくエヴァが終わるということに対する思い入れが無い状態で今回のシン・エヴァを観ていいものかと思っていた。だが公開が近づくにつれて、やはりあのエヴァンゲリオンを庵野秀明がどうやって「終わらせるのか」という点が気になってきて仕方なくなってしまった。

とてつもなく不安な気持ちを持って、僕はチケットの予約を取り上映時間3時間という長丁場なため水分補給もその日はほどほにして(中年に近いオタクの膀胱は本当にゆるゆるなのである)シン・エヴァの上映を迎えた。


結論からいうと、とても「気持ち良かった」


勿論、映像としてはかつての旧劇などから感じた鬼気迫るものや圧倒される描写や演出といったものは殆どなかったように思う。アクションシーンも磯光雄作画パートの2号機と量産型との戦闘シーンと比べるとどれもCGのクオリティのせいか味気なく全く勝負になっていない。前半の農業パートの第三村の作られたジブリっぽさや綾波に田植えをやらせるシチュエーション自体は面白いがとってつけた感がやはり拭えないし、後半の怒涛の全エヴァ撃破RTAはもう完全にギャグ時空だと思ってしまった(またアスカとケンケンのカップリングについては、これはLAS派が黙ってないぞ…という感じをヒシヒシと鑑賞中も感じてしまい巨大化した綾波よりも怖かったです)

これ以外にもいくらでも批判できる箇所だらけの映像なのに何故、こんなにも晴々とした気持ちをシン・エヴァは僕に与えてくれたのだろうか。かなり言語化しにくいが恐らく、次のようなことがあげられると思う。

1 序、破、Qで広げた風呂敷を力技で畳んだ
2 登場人物がディスコミュニケーションなく対話が行えるようになっている
3 旧劇とは違い、緩やかに現実へ観客を戻したうえでの「終劇」

1に関しては間違いなく庵野秀明の滅茶苦茶な手腕があってこそで、あれだけ広げた風呂敷を完璧に畳んでいるので「終わった感」がとてつもなかった。それが如何に力技(めっちゃ出てくる○○インパクトと○○の槍やわけ分からん横文字の応酬)でも、なんとしてでもエヴァを終わらせてやるという気概を感じた。

2は旧劇と比べて明らかに登場人物が自分の心情を正確に相手に伝えて、相手もそれに対して明確な答えを返せており、互いに会話のキャッチボールができている。これはもうATフィールド(心の壁)だとかヤマアラシのジレンマだとかのジャーゴンや心理学用語(エヴァの主要テーマでもあるのだが)についてはいい加減どうでもいいという庵野秀明の今の本音なんだと思う(「他者」に対する恐怖だとかはゲンドウの独白に全部任せてしまっているくらいには、もう本当にどうでもよくなってしまっているんだなあと思います)。

3については旧劇がアスカからの「気持ち悪い」で突き放された(と感じるような)形で現実へと戻されて「終劇」したのに対して、シン・エヴァは緩やかな変化としてラストの宇部新川駅で全くヒロインレースに参加してなかったマリが殆ど接点皆無だったのにメインヒロインかのようになっており、シンジと2人して駅を飛び出していくシーンで完全にオタクの想像力の外(シンマリのカップリング二次創作ってあるの???)へも飛び出しているので「ああ、完全に遠くへ行ってしまったなあ…」という感覚をオタクとしては覚えてしまうのである。

また大人になったシンジの声が緒方恵から神木隆之介になっているのも明確に現状のアニメというかオタクを取り巻く環境が90年代とは違うのだということを改めて分からせてくれた(新海作品や鬼滅の刃が大ヒットするコンテンツ環境は25年前のオタクにとっては全く考えもしないものだと思う)。そう、時代は変わったのだ。

「卒業」という「通過儀礼」

こういった喪失感を表す言葉として「卒業」という言葉が僕はふさわしいと思う。そうなのだ。今回の新劇は壮大な「エヴァンゲリオンの卒業式」だったのである。凡庸な例えだがこれ以上の言葉は無いと思う。それは観客だけでなく主要なメインキャラクター達もそうである。25年という歳月を経てやっとエヴァンゲリオンという作品からキャラクター達、延いては監督である庵野秀明も飛び立つこと。これこそが還暦になった庵野秀明の「今の気分」であり、多くのオタクたちの望んだ結末なのではないか。その2つがうまくシンクロした結果、僕はとても「気持ち良く」劇場を後にできたのである。

ここまで書いたが「卒業」というのはあくまでもイニシエーション(通過儀礼)でしかない。それも形骸化したものである。別にシン・エヴァが終わった後もエヴァンゲリオンは様々な形(ソシャゲのコラボなど)で現れてくるだろうし延々とネタとして消費され擦り続けられるであろう。だが考えてみると現実の卒業式もそんなものである。別に学校を出て社会に出て働いたとしても急に大人になれるわけではないし、単に環境が変わるだけなのである。

だが、もう二度と昔居た、その環境には戻れないのだ。

なので今回のシン・エヴァはもうあの頃じゃないんだという当たり前のことを分かったうえで(それは人それぞれ良くなってる場合もあるし、悪くなっている場合もあるけれど)それを改めて言ってくれたという「まごころ」を感じました。そんな終わりを迎えてくれた庵野秀明監督、新世紀エヴァンゲリオンに感謝します。

ありがとう。そして、さよなら。

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