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きっと何者にもなれない人などいない

記事のタイトルがもう答えというか、ネタバレな最悪な記事なのでこれから劇場版ピングドラム後編を観ようという人は読まないでほしい。


「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」というセリフはウテナの「世界を革命する力を」とかと同じく作品のフックとして機能しているのだと思う。初見の視聴者に「おっ」と思わせる言葉なのである。イクニはこういうセリフをバングで繰り返すのが大好きなのである。そして我々、視聴者も大好きなのだ。

今回、この「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」に対する「明確なアンサー」として劇場版ピングドラムは位置付けられる。TV版では受け手の取り方次第でどうとでも解釈できたが、今回は作り手のメッセージがはっきりと最後に伝えられるので、議論の余地は無い。


私たちは誰でも、きっと何者かになれるのだ。


11年越しの「公式」からの解答である。以後、私たちがピングドラムを語る際にはこれを頭の片隅に入れなければならない。

なぜ「何者」かになれないと思ってしまうのか

これは語るべきかどうか悩んだが、言わなければ片手落ち感もあるので言ってしまうと、私たちはこの世に生まれた時点で誰かにとっては「何者」かになっている。アイデンティティ(自己同一性)の話でなくロールモデル(役割)の話である。用は最初から与えられているのである(親子関係や兄弟関係、血縁関係なく与えられる役割を人は生まれた時から演じてしまうはず)。

だが、それが自分にとって満足のいくものでない場合、あるいは演じるのが難しい、困難になった場合に人はその役割を拒否する。そして新たな役割を自分で探すのである。絶えず脱自していくのが人間なのである。しかし、これが上手くいかない場合がままある。ボタンの掛け違い、タイミングの悪さ、時代のせい、要因は様々だが一番の多くあがる原因は「親子関係」なのではないかと思う。

正直、ピングドラムと親和性がありすぎるので結びつけたくないが、どうしても思考の先に結びついてしまうので、例として挙げてしまうと今回の銃撃事件の犯人がまさにそうだったのではないか。

彼は「社会内の役割」でも「親子関係内の役割」でも上手く「演じれなかった」のではないか。もちろん外的要因は凄まじいものがある(就職氷河期、宗教2世、献金による家庭崩壊)。きっとこういった人は多くいるように思う。そしてその無力感に苛まれ、「自分は何者にもなれない」と思ってしまうのである。

それを踏まえて、あえて言ってしまうとそれでも人は「何者」かになるために「役割」を「演じなければ」ならないのだ。この「自分らしさ」全盛の時代にはふさわしくないのかもしれないが、人は「社会」あるいは「共同体」での「役割」を与えられ、演じていく中で初めて「自分らしさ」を獲得する社会的動物でしかないのではないかと筆者は考える。

じゃあどうすれば「何者」かになれるのか

では、外的要因で自分が納得する何者にもなれない場合はどうすればよいのか。答えは映画のタイトルで明確に出ている。

「僕は君を愛してる」

これが答えです。

最初から最後まで「愛」についての話なのである。なので誰からも愛されない場合はどうすればいいんだという人もTV版の頃からいるのだ(サネトシ先生のデッドコピーみたいな人々)。

それについては桃果みたいな子に出会うしかない!君も桃果教に入ろう!というしかない。しかし現実に桃果はいないのだ。そして、それでも生きなければならない。

きっと、いつか一緒に輝いて

結局、ウテナの話になってしまうのだが、人は「外部」に向かってしまう生き物なのだど思う。それはピングドラムのサネトシ先生がいう「箱」に閉じ込められていることと同じ意味なのだが、ウテナのすごいところはこの「箱」の外も別の「箱」なんじゃない?という見せ方(劇場版の話)をして終わっているところで、筆者もこれは腑に落ちるというか、全くそうだなと生きていると思う。

しかし、生きていく上では外に向かって歩き続けるしかない。

今回の劇場版ピングドラムではそれを再確認させてくれる内容だった。私もウテナを探しに学園の外へ向かおう。

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