昭和の日

昭和は遠くなった。

平成生まれの自分がいうのもおこがましいが、「昭和」という時代が、この国の歴史において、この国の社会の実際を眺めていく上で重要な意味を持つことは改めて指摘することでもない。
私たちの親世代は全員「昭和生まれ」であるし、そこにアイデンティティは少なからず有しているだろう。


「昭和」とは何か。
単なる元号という記号では無いこの時代の持つ意味を考えてみたい。

まず思い出すのは実家の光景である。

実家の神棚に昭和末の皇族のファミリー写真があり(多分今もあるはず)、幼い頃から不思議と馴染んでいた。

一度その写真について訊ねたことがある。
祖父が、地区の部農会で勤労奉仕に行っていたらしく、その時の昭和帝との対面にいたく感動して写真を飾るに至ったらしい。
祖父は、天皇との対面を自分の人生の誇りとしていた。国民学校世代で、義務教育は軍事教練を叩き込まれていた世代でもある。

昭和6年生まれの父方の祖父は、戦後、跡継ぎがいなくなった祖母の家=私の実家に婿入りした。小作農として没落していた家の経営を建て直し、土地も開拓し、茶、米をはじめとして多角的に農業経営に成功した。
地域レベルのコミュニティではそれなりの有名人となっていたようではある。

そんな祖父は家庭内では「典型的な亭主関白」だった。「俺が居なかったらこの家は、、、」が枕詞だった。そんな性格だから祖母方の曾祖母が無くなった時、遺産を巡り大紛糾したという。

そんな祖父との関係の中で、祖母は誰よりも優しかった。祖父の怒鳴り声にも反論せず、孫である私たちを甘やかせてくれた。農業の仕事に加え、市場に商品を販売行くのも祖母の仕事だった。
掃除洗濯料理片付けと、誰よりも仕事をしていた。
今思えば、誰よりも忙しい日常という意味で、祖母は戦後日本の女性像を象徴していたように思う。

曾祖母の遺産を巡り紛糾した後、親戚との繋がりも疎遠になった。
祖父が必死に確保した土地も、農業を継がなかった父や父の兄弟の状況もあり今では荒廃して、私も含め「後処理」に頭を悩ませている。
農業のあり方の大きな転換が叫ばれる現在において、そして、地方における人口減少が切実な問題として迫る中、管理できない土地の問題は、今後の社会問題になることは間違いない。
これは当事者としての問題でもある。

祖父は5年前に亡くなったが、そんな祖父の人生そのものが、極めて「昭和」的であり、時代の転換を象徴している。

地方の一農家の人生から考えさせられることもたくさんある。

母方のファミリーヒストリーも面白い。

母方の祖母は昭和2年生まれの秋田大地主の長女で、屋敷では「お嬢様」と呼ばれていたらしい。しかし、敗戦による農地改革に「素直に」従ったが故に没落した。
兄弟が多く、幼かった祖母の弟は敗戦後の学校で「もと地主の子ども」という理由で壮絶ないじめにあったという。

祖母は親戚の縁で戦後、静岡に移住していたが、そこで祖父に出会う。
祖父は東京、上野出身で疎開して静岡に来ていた。祖父は病弱で徴兵されなかったが、祖父の弟は満洲へ出兵し、シベリア抑留を経験した。そんな状況の中で、祖父は戦後、静岡への移住を決意した。

祖父は武蔵高等工科学校を出ていたこともあり、後に公立数学教師として、更に私立の学校の管理職として勤務していく。

祖父のことは祖母がよく話してくれた。

自信が病弱で徴兵されなかっことに負い目を感じていたこと。憲兵にマークされていたことが、終生警察嫌いだったこと。

そうした自分が経験した問題がその後の人生にも大きく作用する。時代が戦争を挟み転換した昭和における重要な問題だと思う。

母方の祖父母の家を建て直すことになった時、祖父が亡くなってから20年近く経つ中で、改めて様々な遺品が出てきた。

長い間触れられてなくても、まだまだ使えるネクタイがあった。
おそらく「今」の時代ではデザインされないような柄である。

そのネクタイを身につけることも、「今」の時代を生きる私が、「昭和」の記憶を身に刻むことを意味するだろうか。

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