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あとがき「名古屋」

普段は「切抜」をアップしてますが、ちょっと今回は畏まらず、かっこつけずに、ラフな感じの文体でココ最近の話の自分のことを書いていきます。たまにはこうして読者の皆さんを近くに感じながら書くのもいいですよね。

アイコン、新しくしました。
先日、父親の四十九日の法要で一瞬だけ帰郷したのですが、移動の際に車窓から見えた菜の花畑の黄色と緑色のコントラストがあまりに綺麗で、「そういう春の装いっていいなあ」と思い、電車の中で描きました。



8,9年ほどお世話になっていた名古屋を遂に旅立ちました。内心、名古屋の雑に居心地のいい感じがはまっていたので、お引越しの日なんて訪れて欲しくなかったなって思ってました。でも、夢を叶えるために腹を括ってここを離れました。

私が名古屋にやってきたのは18歳の時。大学進学が理由で地元長崎からはるばるやってきました。昔からホームシックを拗らせがちなので、母親が名古屋まで一緒に飛行機に乗ってお見送りに来てくれた時は、住まいの最寄り駅のベンチで半べそ状態で「さみしか〜」と母親に泣きついてました。長崎大好きなんですよ、私。
大学でしっかり勉強したら名古屋で音楽活動していくんだー、と4年生の時に意気込んでいたんですけど、大学を卒業しても現実はそう上手くいかず、でもせめて音楽だけはつなぎ止めておきたくてと意固地になって、当時ワンルームで2人で窮屈な空間で2年近く同棲生活をしていた元彼と揉め事があったことをきっかけに、今日まで暮らしていた部屋に引っ越すことになりました。ビックリするくらいの開放感のある部屋で、しかも学生の頃から住んでみたいなと思っていた、うちの大学生徒御用達の近所の音出し可能物件。もうこれは音楽をやらないわけないでしょうと、それはもうはりきってやりましたよね。たまにキーボード弾いたり、本業の歌練習しまくったり、実家から担いで持ってきたチェロとオカリナ練習したりして、しばらくはそんな音にまみれた生活を送ってました。

けど、時間が経つにつれて私生活が音楽よりどんどん社会に蝕まれるようになって、現実を嫌でも見せつけられる日々がやってくるようになりました。生活費だとか、仕事の給料だとか、税金だとか。生活していく上でそれは当然大事な事だよなーとやんわり考えていた中で、電話越しに母親からも「教師になれ」「どっかの安定した企業の正社員になれ」と口酸っぱく言われるようになりました。もうこれがウンザリするほど嫌だったんですよ。
それでどうにかして音楽活動を続けたくて、ブライダルのスタイリストの仕事なんかに転職したりして。手元に入るお金は良かったにしても、すり減らされる体力は想像以上のもので、その先で待ってたのがパワハラで、そのうち音楽のことなんてろくに考えられなくなりました。


私が元々専攻していたのが「声楽」という、声帯が楽器の人間だったので、歌うことばかり考えいました。けど、ここまで来たらせめて生まれ持ったこの声で、大学進学前から争ってきていたライバルをギャフンと言わせてやりたい、そう思って目指し始めたのが「声優」の世界でした。他にも、父親の名を超えたいとかそういう野望もありましたが、何にせよ自分の中にあったのは「その世界を見てみたい」という、単純な興味本位です。
そこから1年間ほど声優コースのある専門学校に通うために再度転職をして、平日は睡魔時々忙しさと戦いながらの日々を送り、毎週日曜日には同じ志を持った友人たちと切磋琢磨しました。もうそれからの1年間は瞬く間に過ぎていきました。

昨年の11月に個別でオーディションを行なっていた「ケン〇〇オ〇ィス」さんのそれにエントリーして受けた結果、ありがたいことに本科生として合格を頂きました。友人たちからおめでとうの言葉を沢山もらい、その頃父親が弱っていて大変だった母親にも話をして上京を許してもらいました。ほっと一息をつくのも束の間、それからが精神的に地獄でした。

月が変わって12月、年末という残業だらけの時期から転職活動を始め、一方で父親の容態がみるみる悪化していくというところからスタートを切りました。既に上京している友人たちからアドバイスをいくらかもらって転職を進めるも上手くいかず、年が明けてから何社かエントリーをしてもほとんど書類選考で撥ねられまくってました。(書類だけで何がわかるねん!面接させい!と何度も思いました)
もうどうしようと頭を抱えていたところ、2月の祝日明けの真夜中に父親の訃報が入って、そのショックでしばらくまともに転職活動ができませんでした。父親が亡くなってしまったという悲しみをずるずると引き摺りながら、結局籍を置いている派遣会社で関東のお仕事を紹介してもらいました。でもそれが決まったのが3月のど真ん中で。4月まであと半月分となっている所で急ピッチで物件探しと手続きをこなしていきました。
この目まぐるしい日々の中、ここまでずーっとメンタル面で息継ぎをする暇がなくて、毎日あっぷあっぷの状態で動いていました。

そうこうしている間に、先日まで1年3ヶ月の間お世話になっていた職場とのお別れの日が訪れ、その最終出社日の日に博多まで急いで移動して、翌日の父親の四十九日の法要のために長崎へ帰郷しました。納骨作業の時にお坊さんが来るまで父親の遺骨を抱えていたんですけど、この時に改めて父親はいなくなってしまったんだなと悲しくなったものでした。本当は父親にはもっと教わりたいこと沢山あったんですよ。けどそれがもう叶わないんだなって。
でもそんな悲しみを振り切りながら、法要が結んだあとに直ぐに名古屋まで戻って引越しの準備に取り掛かりました。この時点でまともに梱包してるものってなかったんですよ。ここから更にバッタバタでした。

3月27日〜30日まで、感傷に浸る間も惜しいくらいに梱包作業に追われる日々でした。あんまりにも自分の物が多すぎて1人では到底間に合わないと思い、知人になんとかして願い倒して作業を手伝ってもらいました。30日の夜は引越し業者の人も引くくらい物が多くて、一時は持っていけないかもしれませんと言われたんですけど、業者が持ってる梱包材でなんとか運べるかもしれないと知恵をしぼってくださって、それで運んでもらいました。(有り難すぎたのでお礼にお茶とお菓子差し入れしちゃいました)

(鍵を返す日に撮りました。すっからかんになった部屋を見て更に悲しくなりました。この部屋にもちゃんとお礼を言ってきました。)

ドタバタの3ヶ月を走り抜けてきた中で、積もり積もった別れの悲しみが爆発してしまって、引越しの荷造りをしていた時やふとした時に一息ついた瞬間に涙が勝手に流れてきたりしてました。それこそ、31日に新幹線に乗ってる時も、物凄い速さで過ぎ行く東海の景色を見ながら「もう帰ってこないんだな」と思った瞬間にぶわっとなったりもしました。そんな気持ちがゴリッとすり減ったまま、なんとか東京に移動してきましたとさ。


さて、今日から4月です。
年度始め、新学期、新生活など、全てが新しくなる日です。私の生活もほぼ今日から始まったようなものです。

私にとって名古屋はもう第二の故郷そのものです。たくさんの人達、沢山の景色、沢山の思い出たち、この名古屋であらゆる事象に囲まれながら、親の元から意地で離れた私が私らしくあるために、一人でいろんなことを経験して、その度に感情を咀嚼してきて蓄えてきて、それで今の私があります。
ここまで私を成長させてくれた名古屋には感謝してもしきれない程の恩があります。いつか故郷たちに恩返しが出来るように、新天地東京でより成長できるようにこれから前を向いて進んでいきます。

これにて私の人生〜名古屋編〜は終幕です!
今日から東京編が始まるので、どうぞお楽しみに…!
ここまでお付き合いくださいまして、ありがとうございました!


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