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今はもういない選手が蘇った日

春にプロ野球が開幕しなかった。

春の高校野球も、どきどきしながらチケットを申し込んだサントリードリームマッチも、発表された瞬間から行くのを楽しみにしていたライオンズの東京ドーム主催ゲームも、全て開催されることはなかった。

加えて大好きなライオンズナイターで、大好きな実況をする松島茂アナが急逝していたことも、私の悲しくてやるせない気持ちを増幅させた。

日に日に増していく感染者と、いつ自分や家族がどうなるかわからないという恐怖に、精神的にも肉体的にも疲弊する日々。

気がつくとメディアから流れてくる映像も、過去の番組の再放送や再編集ばかりになっていた。
あんなに「キラキラした未来が待ってる」というようなことを言われ続けていたような気がする2020年が、よくわからなくなった。

今ここは何年の日本で、私は今何歳なのか。

そんなことを思ってしまうくらい自分の肉体とは相反するような懐かしい光景が画面には広がっていて。
ちぐはぐで無茶苦茶な、時空の歪みに閉じ込められたような感覚。

でも、だからこそ、見られたものがそこにあったのだ。

1.わたしとプロ野球

正直なところ「プロ野球」というものが私の人生の中心を一番激しくぐるぐる駆け回っていたのは、2003年末〜2007年ごろがピークだったのかもしれない。

それはプロ野球を好きになったばかりの頃。

どちらかといえば巨人かな…というような、野球に熱心な家族がいない環境だった。何なら母は阪神が苦手。
…そんな家庭で生まれ育ったのに、何故か阪神タイガース18年ぶりの優勝で沸く2003年に心奪われたのは井川慶投手

母親の苦手なものをめちゃくちゃに好きになるという、今思えば人生ではじめての「反逆」は私の人生を大きく変えた。

同時に救いでもあった。

中学時代、思春期のせいか駆け足で大人ぶりたい同級生とあまり歩幅が合わずに苦労していた日々を過ごしていた。そんな中でも、井川の快投が、金本のホームランが、赤星の盗塁が、私の毎日の元気の源だった。
あの時にプロ野球が無かったら…と思うと、今でも少しぞっとする。

◆井川慶という選手

彼は不思議な魅力を持っている。

ゆったりとしたフォームから繰り出される投球は、派手さはないけれど格好良かった。マイペースに黙々と淡々と投げ続ける姿はまさに「マイペース」。
外野なんて気にせずにただ「自分の仕事」を遂行する姿にあこがれた。あの当時の自分には出来なかったこと。だから無意識に心を寄せていたのかもしれない。
勝っても負けても、マウンドに立つ姿を見るのは嬉しかった。

生で投球を見たのは人生で一度きり。
千葉に住む中学生が兵庫の球団を追いかけることは、当時の自分にとってはとてもとてもハードルが高いことであった。
それに彼は先発ピッチャーだ。ローテーションの都合もある。タイガースの試合は何回も観に行ったが、なかなか先発の機会には恵まれなかった。一度だけでも生で見られたのは、奇跡だったのだろう。
自らはタイガースが苦手だというのに、子どもの好きなものを尊重して何度も野球観戦に付き合ってくれた母には、今も頭が上がらない。

生でその姿を見ることは僅かだったが、思い出は沢山ある。
特に2004年にノーヒットノーランを達成したときのときめきは計り知れなかったし、2005年に優勝したときは優勝記念のスポーツ新聞の懸賞に当選したこともあった。
サイン入り生写真とサイン入りボールは、今でも私の宝物である。

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「井川慶」というピッチャーは、一番多感な時期である13〜15歳頃の私に色んな喜怒哀楽を教えてくれた。

だからこそ、メジャーリーグに行きたい彼と周囲の間にどんどん溝が出来ていったのは子供ながらに見ていて辛かったし、スポーツ新聞で連日名指しで叩かれているのも悲しかった。

彼がメジャーリーグへの夢を叶えて、タイガースを離れる時期と同じくして、私は高校に進んだ。

井川慶のいなくなった阪神タイガースも好きだったけれど、高校生活は中学時代よりもよっぽど楽しく、充実していた。
日常の満足感はいつしか「心の救い」をあまり求めなくなり、千葉マリンスタジアムに徒歩で行けるような距離に通学していたというのに、野球を見に行く機会はみるみる減ってしまっていた。

◆時は流れて

いつしか私は社会人になっていた。
井川慶がマイナーリーグから日本に帰ってきて、オリックスバファローズに入団していたことは当然知っていたけれど、タイミングや色々なものが噛み合わずに見る機会を逃し続けていた。

けれど人生とは不思議なもので、就職した会社では取引先からプロ野球のチケットを貰うことがとても多かったのだ。
それをきっかけに少しずつではあるが、野球を見る機会は不思議と増えていくことになる。

今思えば頂いたチケットでタイガースがCSを突破した試合、日本シリーズで山田哲人が3打席連続ホームランを打った試合、WBCで中国相手に小林誠司が2ランホームランを打った試合を見ることができたのは、とにかく運が良かったとしか言いようが無い。
そんな劇的な試合を生で体感し続けると、人間というものは単純なもので、少しずつ野球へ心が引き戻されていった。

だから井川慶が独立リーグで細々と、それでも生き生きと野球をしている話がわずかでも聞こえてくると、これまで以上にその事実が嬉しく思えた。
ファンの方が有志でアップロードしてくださっている写真や動画でマウンドに立つ姿を見ると、子供の頃と変わらずやはり嬉しくなる。
嬉しい気持ちはいつしか「また彼のピッチングを生で見たい」という強い感情にふつふつと変化し始めていく。

私はこの春、実に14年ぶりに井川慶のピッチングを生で見る。はずだった。

◆訪れない春

コロナ禍で私が井川慶を見る夢は絶たれた。

サントリードリームマッチに出場予定だったが、試合自体が感染拡大防止のため中止に追い込まれてしまったからだ。
数多くのイベントやライブが中止になる中、実はこれが一番堪えた出来事かもしれなかった。

それは、彼がいつ投げるのを辞めてしまうかわからないという恐怖があるから。
それは、彼がいつ関東で投げるのかもわからないという不安があるから。
私はとにかく「現役」の井川慶をもう一度見たかった。

万が一引退したとしても、またいつか行われるであろうサントリードリームマッチには出場はできる。
けれど今を逃せば私の見たい「現役」の井川慶を見られる保証はないし、その姿を見るための時間はあまり残っていないようにも思えた。

世の中の動きが止まってしまっている中、彼は元気にやっているのだろうか。
更新が殆どないホームページにも手掛かりはなく、ただ祈ることしかできないもやもやとした日々を過ごしていた。

そんな中友人から一通のLINEが届く。
そこには「テレビで井川が投げている」という、信じられない一文が添えられていた。

◆地上波、ゴールデンタイム、生放送にて

引退…といえば語弊がある。何故なら彼はまだ引退を表明していないからだ。
けれど、世間的には引退したも同然の「浪人」状態である彼が、2020年に、地上波の番組で、ゴールデンタイムに、生放送の中、マウンドに立ってバッター相手に速球を放り込んでいたのである。
顔に変なマスクはつけていたけれど…。

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自分の身分を明かさずに投げていても、マスクから見える口元でバレバレなのは、少し間抜けな感じがして思わず笑ってしまった。
ヒントとして出される経歴の数々でも彼が井川慶だということはびっくりするぐらい筒抜けなのだが。

見慣れた青グラブ。あの投球フォーム。40歳を過ぎても何も変わらない。
経験者といえど素人を相手にしている。全盛期よりは当然力も衰えているだろう。投球テンポの良さが売りなのに、生放送のバラエティ番組という点でペースが乱されまくっている。思うところは多々あった。が、しかし。

そんなことが全て吹き飛ぶくらいには、夢のような光景だった。にわかには信じ難かった。
打者4人を抑えて勝利するところなんて、めちゃくちゃに最高だった。番組的にはどうだったかはわからない。

でも私は、彼のそんなマイペースなところがずっと好きなのだ。

井川慶が「勝つ」光景を、きちんとこの目で見たのは一体何年ぶりなのか。彼ははっきりと「現役」だった。これほど嬉しいことがこの世にあるだろうか。

昂った心はひとつの決意を心に誓わせる。
やっぱり彼の生の投球をどうにかして見に行かなければ、と。

2.もうひとつの、わたしとプロ野球

今の私は、埼玉西武ライオンズファンだ。

井川慶をずっと好きなのが変わらないように、ライオンズファンだというのもずっと変わらないのだと思う。
プロ野球の世界に落ちるきっかけが阪神タイガースと井川慶なら、プロ野球を深く深く好きになるきっかけは間違いなく西武ライオンズと赤田将吾選手だった。

プロ野球を好きになったタイミングで日本一になったチームがライオンズだったというのもあるのだろうが、あの頃からライオンズの野球は劇的で痛快だったように思う。
だって日本シリーズでのカブレラ満塁ホームラン返しは、今見たって鳥肌が立つくらい痺れるのだから。

◆赤田将吾という選手

彼を好きになったきっかけは、何故か野球をしている姿ではなかった。

2005年元日。中島裕之選手を目当てに見ていたはずの『スポーツマンNo.1決定戦』で、「あの」池谷直樹と猛烈な首位争いを繰り広げる姿に釘付けになった。
あまりに衝撃過ぎて、その日から彼を意識してライオンズを見る日々が始まる。
けれど「彼にとってはおそらく野球が一番苦手なスポーツ」と言われているだけあって、私が見に行く試合ではスタメンではないこともしばしば。

当時、文化放送ライオンズナイター内には『赤田将吾の暴れん坊将吾』というコーナーがあり、抽選で西武ドームの試合にファンを招待するプレゼント企画があった。
運良くチケットプレゼントに当選した私は当時中学2年生。自宅から西武ドームまでは車で行っても2時間以上。しかもいただいたチケットは平日のナイトゲーム。

なかなかハードルの高い状況の中、両親に連れて行ってもらった初めての西武ドームは山の奥にあるし外はとにかく真っ暗で、ドームだけどドームではない場所だった。
いただいた座席のあるバックネット裏付近に行くには、なんだか登山みたいに坂を登らなくてはならなくて、それは新鮮だけど少し大変で。
今まで行ったことのある東京ドームや千葉マリンスタジアムとは全く違う景色に、とてもびっくりしたことを覚えている。

それでもずっと、テレビやラジオや雑誌で見て憧れて続けていた西武ドームはキラキラして輝いていた。
だってここにはライオンズしかないのだから。
そんな環境は世界中どこに行ったって、西武ドームにしかない。

初めての西武ドームでも、赤田将吾は守備固めで出てくるだけ。
帰りの時間が迫る中、守備固めだけ見て帰るのは少し残念だったけど、ベンチに戻ってくる彼に大きな声で「しょーご!」と呼びかけてみた。
すると彼は私の声に気付いてくれてジェスチャーで返事を返してくれた。

ずきゅん、ときた。
中学生にとって、そんなファンサービスがとどめになったりする。1人の女子中学生の人生が狂った瞬間だった。

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そんな彼も、私が大学に入るタイミングと同時期にライオンズを去り、バファローズ、そしてファイターズと渡り歩くことになる。
井川のときと同様、やはり好きな選手のいなくなったチームを見る機会は少しずつ減っていってしまった。

◆青天の霹靂

だが、赤田将吾はライオンズに帰ってきた。
私の好きな「埼玉西武ライオンズの赤田将吾」は、コーチになって帰ってきてくれたのだ。

いつかまたライオンズに帰ってきて欲しいと、ライオンズのユニフォームを着ている将吾が見たいと密かに願い続けていただけに、感無量だった。
あわよくば現役のまま戻ってきて欲しかったけれど…というのは、今だから言える我儘だ。

それからはずっと浮かれ続けている。もちろん今だって。

自宅から所沢が遠すぎて、2軍コーチの時はなかなか現地に足を運べなかった。けれど1軍コーチになった去年は、それはもうびっくりするくらい浮かれて、球場へ足を運ぶ機会も増えた。
赤田将吾をライオンズの1軍で見られるなんていつぶりなんだ…と浮かれていたらチームが連覇して、更に生で胴上げも見てしまった。
そして最終的には、何故かハワイの地で奇跡的に優勝旅行ご一行に遭遇していたりもした。

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ちなみにハワイ旅行が決まった段階ではライオンズは3位あたりをうろうろしていただけに、余計この「2019 Pacific League Champions」が沁みる。

そんな充実しすぎた2019年からの開幕延期はなかなかに落差が大きく、プロ野球の無い日常がさも当たり前かのように、肉体や精神を蝕んでくるのがひたすらに不愉快だった。

◆2020年が、2006年になる

それでもプロ野球に携わる人間たちは、諦めることをしなかった。

いつしかテレビやインターネットでは過去の名試合を放送するようになっていて、私はそれらの恩恵を無茶苦茶に受けることになる。

ひとつはNHKで。
2003年と2005年の阪神優勝、加えては生では勿論見たことがないけれど2001年の近鉄優勝など様々な過去の試合がBSテレビで放映される中、5月1日に放映されたのは2006年10月7日に行われた、パ・リーグプレーオフ第1ステージ第1戦ライオンズ対ホークス戦

この試合は松坂大輔と斉藤和巳といった両チームのエースが死力を尽くして投げ合う、壮絶な試合だ。
現在は殆ど引退している選手ばかりの両チーム。誰が画面に映っても心躍る要素は溢れていてときめくけれど。
一番ときめく姿は1回の裏に早々に訪れる。

1番センター赤田将吾。
正直大袈裟だけど、涙が出た。この試合、4タコだし三振もある。見どころは守備くらいであろうか。それでもよかった。ライオンズのユニフォームを着てバッターボックスに立ってる彼を見られただけで、とんでもないことだから。
懐かしい応援歌。懐かしいゴーゴーレッツゴーの声。赤田将吾がライオンズの選手だということを、目からも耳からも思い出させてくれる。

将吾が蘇った。

それは叶うはずもないのに待ち焦がれて、ずっとずっと見たかったもの。

◆2020年が、2008年になる

ふたつめは球団公式YouTubeで。
ライオンズプレイバックゲームスペシャルと題して、NHK放送の4日後の5月5日に行われた配信である。
こちらは2008年10月22日に行われた、クライマックスシリーズ第2ステージ第5戦ライオンズ対ファイターズ戦。この試合は4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた試合であった。
この試合を、2020年を生きる赤田将吾コーチと一緒に振り返るのだ。

…緊急事態である。緊急事態でしかない。
心躍るだとか、ときめくだとか、それどころではない。一周まわって愕然とする。
赤田コーチが2008年の映像を見ながら、自分の打席を見ながらコメントを残している。こんな光景、開幕延期が無ければ一生見られなかったのではなかろうか。

初めて聞くコンバートの話。スイッチヒッターになったときの話。盗塁の話。登場曲のエピソードや、カブレラの180m弾の話。そして、友亮さんの話。

1番2番に佐藤友亮、赤田将吾が並ぶのが大好きだった私。時を経て、並んで一緒に1軍のコーチをしている姿に胸がいっぱいになった去年。
コーチになっても現役時代と変わらない2人の姿にとても嬉しく思っていたけれど、2020年になって、将吾が「友亮さん」と呼んで話をしているような現実、信じられないにも程がある。

今だったら遠征だってなんだって出来るのに、2006年も2008年もまだ学生で何も出来なかった。満足に応援できなかったという悔いは今でも残る。
けれどこんなご褒美を大人になってから貰えるなら、あの頃あの頃なりに応援していた価値は確かにあったのだと実感する。

少しだけ過去が報われた気がした。

3.いいことも悪いことも

6月19日、待ちに待ったプロ野球が開幕した。

それだけで毎日が見違えるように明るくなった。ここ半年の中で、一番楽しく過ごしている日々かもしれない。

2月の末から続くこの生活は、残酷にも「無くても生きていけるもの」と「無くては生きていけないもの」の明暗を、如実にくっきりとさせた。
今まで私にとってとても大事だと思っていたものが、案外日常に無くても平気だということを知るのは少し悲しくもある。

けれど私にとってのプロ野球は、はっきりと「無くては生きていけないもの」だと、痛いくらいに実感させられた。
この自粛期間は自分にとってプロ野球がどれだけ大切で、どんなときも苦しいときには助けてくれるものだという事実を、再認識させるには丁度良い機会だったように思う。

勿論、勝った負けたに一喜一憂して、負ければ気持ちは荒れるし苛々するし、良いことなんて一つもないけれど。
それでもプロ野球が無い生活は物足りなかった。
今はこの苛々ですら愛おし……いや、やっぱり勝利が見たい。

テレビ中継やネット配信も無観客試合故の寂しさは否めないが、無観客試合だからこそベンチがよく映ったりして、コーチのファンである私はありがたく恩恵を享受している。
こんなに画面に頻繁に映る赤田コーチを見られることは、あんまりないのでとても嬉しい。

あまりネガティブに生きたくないし、ネガティブなことも言いたくない。だからこんな状況だからこそ、逆に得られたもの対して精一杯感謝して過ごしていたい。
そういう意味ではある意味、私は開幕するまでに奇跡みたいなものをいっぱい得てしまったので、得してる人生だと思った。

必ず井川慶のピッチングを見に行こう。
コーチとして戦う赤田将吾を見守ろう。

今はもう見ることのできない選手が蘇った春。
せっかく蘇った光景を蘇った感情とともに、ポジティブに、前向きに。
今年の野球界は一体どんな景色が見られるのか。期待に心が満ちている。

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