両想い。
まるで違う場所で、違うことをして、違うことを考えているけれど、ふたりはそこに居るみたいな。それがわたしにとってのじぐれんのような気がする。
ふたりは似ている。でも交わることはない。だから共に在れるのだと思う。
個人的にれんかいが神宮寺くんを不思議そうに見ているのが何とも言えず好きで。年上組といるときより少し浮いているようにも映る神宮寺くんに、わたしはまた違った安心感を抱く。
メンバーの前でさえ弱音を吐かず疲れた姿も見せない神宮寺くんを心配しつつ、距離は保ったまま、彼が何をして、何を言うのか、ただ見逃さないでいてくれる優しさがそこにはある。
ここまでも、これからもわたしの中で浮かべる想像、主観でしかないのだけど。
神宮寺くんはひとりっ子の鍵っ子として、廉さんは転勤族として幼少期を過ごし、幼い頃から自分の中で完結しなければならない場面が少なからずあったんじゃないかと思う。
それは人とか環境とか、自分以外への諦めのようなものであり、自分を自分以外に食い尽くされてしまわぬよう、守る術を得た時間でもあったかもしれない。
お芝居においてのスタンスもふたりはどこか似ている。自分の身体を通して違う誰かを演じる以上、自らの経験にないものを表現するのは難しい。だけど、両者とも決してその人物になろうとはしない。躊躇わずに飛び込み、精一杯寄り添うし、絶対に見放さないけど、役と一体となることは望まない。一番の理解者、友でありたいと願う。
完全に理解することも、一生一緒にいられることも、到底叶わないものだと知っているから。諦めを知っているというより、むしろ諦めずにいられる人なのだと思う。
廉さんの朝ドラ、神宮寺くんの連ドラ、神宮寺くんの舞台、廉さんの映画が、奇しくもわたしの中で緩やかにリンクしていった。この1年、じぐれんは本当にいい出会いをしている。
『真夜中乙女戦争』を観たとき、消化出来ずにいた神宮寺くんの舞台『葵上』『弱法師』に触れずにはいられなくなった。
(これらの作品に通じる解釈を自分なりに見出しただけなので、そんな落とし込み方もあるんだな、くらいに流してもらえたら幸い。)
神宮寺くんが演じたのは、『葵上』では美貌の青年・若林光、『弱法師』では戦火で視力を失った青年・俊徳。
病に臥した妻の葵、生き霊となって現れる元恋人の康子、二人を苦しめ翻弄しているであろう光が実は最も不確かな輪郭をしていて、この世に在るものではないようにも見えた。
俊徳は、この世にある人、物、景色が本当はおぞましい顔をしていることから目を逸らせず、自らが絶望となることでしか生きられない。級子の言葉は彼を救わない、だから希望なのだと。
『葵上』も『弱法師』も、この世にある様々な対極に存在するようなもの同士が、実際には表裏一体で危ういバランスで成り立ってしまっていることを思い知るような、奇妙な後味を残す作品だと思った。『真夜中乙女戦争』にも、そんなパラレルワールドを見る。世の常と言えばそうだけど、それを一つひとつ拾い上げて示していくものづくりの世界は尊い。
廉さんの演じる〝私〟を見て、〝ああ、会いたかった〟と心底思った。不思議な感覚だった。
神宮寺くんの舞台を観た廉さんは、本人も話すように、本当に刺激を与えてくれるものであり、誇らしい友、最高の理解者に出会うような喜びがあったんじゃないか、と嬉しくなった。
これからも、彼らは何でもないような顔をして、もっと最高の景色を見せてくれるんだろう。じぐれんは、わたしをいつもそうやってときめかせてくれる。