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【こんな日本人がいた!】ー島田叡(あきら)沖縄県元知事

【こんな日本人がいた!】ー島田叡(あきら)沖縄県元知事

こんな日本人がいた!命がけで人を守り、戦いぬいた男、当時43歳島田叡(あきら)沖縄県元知事。1945年1月太平洋戦争の最中、米軍が迫る沖縄に戦中最後の知事として赴任。5カ月の間だが、県民保護の立場を貫き通し、沖縄県民と最後まで行動をともにした。玉砕が叫ばれる中で「生きろ」と言い続けた島田知事の生き方に感動してしまいました。

その打診が来たのは、昭和20(1945)年1月11日の朝だった。妻子3人と朝食のテーブルを囲んでいるところに、隣の知事官舎に住む池田清知事から「話があるから、ちょっと来てほしい」と電話があった。やや長い時間が経ってから、島田は戻ってきて、持ち前の神戸訛りで言った。「沖縄県知事の内命やった」

妻の美喜子は全身の血が逆流するような思いに駆られ、「それで、どうお答えになったのですか?」と聞いた。島田は落ち着き払って答えた。「もちろん、引き受けてきたわ」美喜子は驚いて、我を忘れて叫ぶように言った。「沖縄はもうすぐ戦争になるのでしょう。そんな所へなぜ、あなたが行かなければならないのですか。」

島田は答えた。

だれかが、どうしてもいかなならんとなれば、言われたおれが断るわけにはいかんやないか。おれが断ったらだれかが行かなならん。おれは行くのは嫌やから、だれか行けとは言えん。・・・

これが若い者なら、赤紙(召集令状)一枚で否応なしにどこへでも行かなならんのや。おれが断れるからというので断ったら、おれもう卑怯者として外も歩けんようになる。

島田の沖縄県知事任命は、翌12日、閣議決定され、即日発令された。 島田知事が沖縄に着任したのは1月31日。妻子とは大阪駅で別れたが、これが見納めになった。引っ提げたトランク2つの中には、愛読書の『西郷南洲遺訓』『葉隠れ』とともに、日本刀、ピストル2丁、そして自決用の青酸カリが入っていた。夫人には「死ぬと決まったわけやない」と言っていたが、覚悟の旅立ちだった。

ー国際派日本人養成講座 より参照ー

島田知事の大車輪の活躍は、その日から始まった。

二月下旬には、台湾に飛び、県民に食料米三千石も獲得した。

4月1日 沖縄は、米軍の上陸を受ける。島田知事は、つねに県の職員を陣頭指揮し、住民とともに戦い続けた。

そして知事は、司令官 牛島満中将が自決した3日後、行方をたった。

拳銃で自決したとも、入水したとも伝えられた。

いま、磨文仁の丘に建つ島田知事をはじめ県職員453名の慰霊碑「島守の塔」は、県民の浄財により建立された。

また、夏の高校野球 沖縄県大会優勝校に授けられる「島田杯」は、島田知事への感謝を込めた記念杯でもある。

*自分がもし島田知事の立場だったらこのように 死ぬことがわかっていても赴任することができるだろうか・・

でも島田知事のとった行動に日本人としての誇りを感じますし

こう言った事実をきちっと伝えて欲しと熱望いたします

思うところ

かんながら ありがとうございます

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