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僕について

これからも続きます

こんにちは。マウスといいます。
もちろんあだ名です。

まずは自己紹介から始めましょう。
僕は1987年生まれの男です。
現在は市役所で正規職員として働いています。
今の仕事内容は、まちの魅力発信の企画や、地域活動に困っている人たちの手助けをしています。

僕は生まれた時から右胸心単心室でした。
そのままだと10歳まで生きられないので4歳の時にフォンタン手術をしました。
なので病名は右胸心単心室フォンタン術後です。
あとで知りましたが国指定の難病です。
根治はできないので、今もずっと国立循環器病センターにお世話になっています。

フォンタン手術は途中失敗したものの、最終的には上手くいきました。
おかげさまで幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と、普通の人と変わらない生活していました。

フォンタン手術以外にも、高校生の時に心臓導管内にステントを留置する手術を受けました。
当時のフォンタン手術では成人後の生活を見据えておらず、成長した僕の体には合わない細い人工血管が埋め込たれていたためその部分が狭窄してしまい、血管を拡張する手術が必要だったためです。自覚症状は特になく、とりあえず血管を広げる手術をするからと主治医に言われ、わかりましたと受けました。

24歳の時には心臓の周りに生えた新生血管が心臓全体のパフォーマンスを下げていたそうなので、血管を詰めるコイルを留置する手術を受けました。いくつ埋めたのか正直わかりません。これも自覚症状はなかったです。

その後は特に手術はなく、5年に一度カテーテル検査を受けるくらいです。

現在はアーチスト、レニベース、フェブリク、タケルダ、リバロを服用しています。
数が多いので正直言って邪魔くさいです。

こう書くと、病気を持ちながらもいたって普通に生活しており、普通の人と変わらないように見えますが、割と苦労もしています。

例えば20歳の時。
音楽大学3回生になって、毎日練習に励んでいました。特にこの頃は伸び盛りで、練習すればするほど上手くなっていく実感があり、充実した毎日を過ごしていました。
ところがある日突然、目の前が真っ白にぼやけて立てないくらいのしんどさに襲われました。
家族に助けてもらって病院へ行き、いろいろ検査をするも不整脈は出てるけど、他は特に異常はなし。疲れかな?と思っていたので、このまま病院で一日眠れば明日には治っているだろうと思っていました。

この日から僕の生活は一変します。
朝起きてトイレに行こうとしたら、ほんの3m歩くだけで心臓がバクバク。立てなくてその場に跪きました。異常はないのに、なんでこんなにしんどいの?何か重大な異変があるんじゃないか?頭の中は「なんで?」でいっぱいでした。
次の日も、その次の日も回復せず、思わず一人で泣いてしまいました。

そんなある日、入院担当の医師から大変なことを告げられます。
「いっかい不整脈で心臓の動きが乱れたら、元に戻るのに数年かかることもあるで」
受け入れ難い話でした。数年?何年もこのままなの?またしても頭は「なんで?」でいっぱいでした。

しばらくして、特に異常はないのでいったん退院しました。家に帰っても不調は続き、楽器を練習するどころか大学へ行くのも無理な状態でした。
こんな時、皆さんのご家族はどうするでしょうか?または僕のような子どもがいる保護者の方はどうするでしょうか?
僕の母は、とにかく寝とらんと大学へ行け!の一点張りで、無茶苦茶怒られました。どうしてしんどさを理解してもらえなのか悩みました。誰にも理解されない孤独感を感じました。
でも、思い返すとこの愛の鞭には感謝しています。

それで大学へ這うようにして行くも、駐車場から(自分で運転して行っていました。)大学構内へ行くので精一杯という有様で、そのまま引き返して帰ることも何度もありました。
もちろん不調は治りません。
ただ、しんどさに慣れたようになってきて、少しずつ大学へ行けるようになり、1時間ほどなら楽器を吹けるようになりました。
ところがまた目の前が真っ白になり、入院してしまいます。

やっぱり自分はダメなんだ、自分は心臓が悪いんだと初めて深く自覚しました。
入院していても不調は治りません。
不整脈は出ていたので、この時からアーチストが処方されました。
服用しても特に変わらず一ヶ月半ほど過ごして、またしてもしんどいまま退院しました。

さて、退院してからは相変わらず母に怒られて学校へ行っては短時間練習して帰ってくる生活で、授業はろくに受けられていませんでした。

もちろん体はしんどいのですが、同じくらい気持ちもしんどかった。また目の前が白くなって倒れるんじゃないかと思うと、人前に出るのが怖くなり電車には乗れませんでした。大学で友だちに会っても、また倒れてしまって迷惑をかけるんじゃないか?と思いました。みんな心配してくれるけど、その優しさが僕にはしんどかった。顔色を心配されるのが嫌で、わざわざメガネをかけて目の下のクマを誤魔化そうとしていました。本当にずっとこのままなんじゃないか?どうなってしまうんだろう?と毎日不安を抱えていました。

この頃、唯一の楽しみだったのはコーヒー好きな祖父と一緒にカフェへ行くことでした。
祖父は大学の近くに住んでいたので、一緒に近所のHIROコーヒーに出かけていました。

祖父は僕が不調になる少し前に大動脈乖離になって、生死の境を彷徨いましたが懸命な治療に助けられて生還しました。しかし高齢な上に脚の血管を心臓に移植したこともあって杖をついて歩くようになり、僕と同じく元気な頃から一変した生活を送っていました。

ただ、祖父はいつも笑顔でした。
しんどいはずなのに、なんか笑っていました。
大丈夫?と聞いても、大丈夫や〜と言っていました。
祖父から元気か?と聞かれると僕は素直にしんどいと答えていました。
そうかそうかと笑い返してきました。

祖父はずっと笑顔なので、HIROコーヒーに行ってもニコッと笑って店員さんとおしゃべりしています。しんどいはずなのに、幸せそうでした。

それで気づいたんです。
祖父は自分の運命を受け入れているんだと。
辛いはずだけど、受け入れているからこそ前向きに生きられるんだと思いました。
そして、僕もそうしようと思ったのです。
それだけで、気持ちを変えただけで、世界も僕を受け入れてくれているような気がしました。

もちろん、そうしたからといって全てが変わるわけではありません。その後もしんどさは続いたし、大学へはなかなか行けない日々でした。
ただ、後ろ向きになることはありませんでした。
自分の中に前向きな自分を打ち立てることができて、どんなことでも肯定的に捉えられるようになりました。そして今でも、前向きに生きることができているのです。

長くなってしまったので、いったんここで終わりにします。

もし、同じ病気、同じ手術をして悩んでいる人がこれを読んでくれていましたら、いつでもご連絡ください。
力になれるかわかりませんが、お話を聞くくらいならできます。

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