梅雨に憂鬱

盗んだあじさいを片手に乗せた。ひしゃげたボールのような花は案外重いのだと知った。


質量ある湿気のただ中を、明かりの疎らな帰路に沿ってゆらゆらと彼女は歩いていく。当然月はない。濡れたコンクリートの坂を下るにはヒールはどうも危なげで、 ずっしりとしたビジネスバッグとちゃちいビニール傘のアンバランスのせいで今にも足を踏み外しそうだった。
花泥棒に罪はなしという言葉は昔の話だ。誰かが端正込めて育てたものを無残に奪うのだから相応の罰があって然るべきだよな、と彼女は自嘲する。桜を手折り風流を詠むなら可愛げがあったかもしれないが、闇を被ったあじさいの色は判別できず、近くにあった一本を無選別に取ったというのが真相だ。家庭用のハサミは切れ味が悪く茎の切り口は触れればでこぼことしていた。長く楽しむ必要はないのだからそれでもよい。

あじさいに毒があると聞いたのは友人の部屋を訪れた時だった。
見栄えよく飾られたワンルームで、二人は家主好みの紅茶を傾けていた。彼女が窓際に目を留めたのは、以前来た時に鎮座していた季節の生花がいつの間にか造花に置き換わっていたからだ。
「それねフェルトで出来てるんだ。この子が間違って食べたら困るから。鈴蘭とかあじさいとか、生けた水を飲むだけで亡くなっちゃうらしいの」
「いつから飼い始めたの?」
「先々月くらいかなぁ。一目惚れだよ」
ふふ、と満足げに友人は笑みを零した。
その白い子猫を撫でる手つきを見て、内装全体に視線を移し、彼女は絵になるなぁ、と内心ぼやいた。実際、フィルムカメラに収めれば相応の一枚が切り取れるはずだった。清潔で温かみのある調度品、友人にしか懐かない猫、リネンのシャツを羽織った友人。
「あっ逃げた」
おずおず子猫に手を伸ばすと、警戒したように部屋の隅に走ってしまった。

「ただいま」
鍵を開け、生き物の気配が感じられない部屋の照明をつける。なかなか乾ききらない洗濯物のむわりとした香りだけが彼女を出迎えた。ゴミ出しの日が定められたペットボトルが端に寄せられていた。
手に持ったあじさいをローテーブルに放り、鞄からコンビニで半額になっていたお弁当を取り出す。電子レンジが温めているのを待つ間、サラダ用の白い器に水を張り、あじさいを浮かす。明るい所で見ればそれは瑞々しい赤色をしていた。
花を飾るなんて初めてだ。
チン、と音を立てたレンジを開き、つけてもらった割り箸を割る。白米を噛んでも練り物を噛んでも味に代わり映えはない。どれを選んでも同じ、規格製品の味を周りが散らかったまま食べる。普段通りの、特に思い入れのない生活だ。家族もいない。猫もいない。
あじさいだけが異色で、異質だった。
食事を終えて彼女は手を止めた。テーブルの中央を陣取ったボウル状の花を、肘をついて眺める。丁寧に生きてる友人の部屋に偽物が、片付いてもいない自分の部屋にあじさいがあるのは随分奇妙に思えた。
「水を飲むだけで、だっけ」
水溶性の毒素が染み出すにはどれほどの時間が必要なのだろう。正確には、成人の致死量に至るにはいったいいつまで待てば良いのか。どうせ飲んでも味はしないのだろうけれど。
色のよい殺意が、ゆっくり、ゆっくり染み出していった。

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