小説の街、けれど少女であれないこと

風邪の治りきらぬままに二階建ての赤いバスに乗り込む。パリとそう変わらない筈の夜景が殊更新鮮に思えるのは、ただでさえ広い車内を独占している高揚感からだろうか。今となってはもう7歳も離れてしまった物語の主人公が、家出に使ったのもダブルデッカーだった。私もまた、デモに苛まれる都市を離れて一人この街を訪ねている。今まで共に遠出をしてきた友人達はおらず、不安は拭えないが、背景になった会話は馴染みのある発音で、言語が比較的通じる空間に来たのだとほんのり安堵した。何より、叔母を風船のごとく膨らませるような厄介事を抱えたわけでもない。直視すべき日常から逃げているのは、まぁ、いつものことだ。
闇にけぶった木々の脇に二つ、これまた赤い電話ボックスが並んでいる。道に続く色めかしいネオンサインにさえ目を奪われていると、ごほごほとむせ返ってしまった。咳だけはロンドンを旅する友となったらしい。なるほど産業革命、蒸気と煙の古めかしい街には多少不健康な方が相応しいかもしれない。かの有名な小説群のように、私の上にも物語を繰り広げられるといいのだが。

西ヨーロッパの首都はどこも似たようなものと思い込んでいたのだけれど、朝を迎えるとより差異がくっきり見えてくる。道はわりあい直角に交わっていて、ブロック分けされているように続く不揃いなビル、赤茶のレンガ造りのアパート、かと思えば白い装飾柱が二本玄関を支えている。道の半分にはせり出したテラスがあり、石畳は歩幅よりも大きく形が揃って、道路の向こう側には店が立ち並ぶ。ロンドンは割合雑多だ。
黒に金文字で抜かれた、洒落た看板を横目にアンティーク街に寄り、帽子の似合う壮年からイヤリングを三つほど購入した。ヨーロッパのアクセサリーショップはどこもピアスばかり扱うけれど、ブロカントの商品は値段も趣味も私に合っている気さえする。私は耳に白い翼を生やし、目当ての少女達に会いに行く。
まずは、ミレイが描いたというオフィーリア。夏目漱石がロンドン留学中に出会ったろう彼女は、自然描写豊かな草枕の冒頭にも対比として登場している。現在は、テートブリテンに収蔵されているようだ。そして、ビアズリーの手によるサロメ。旧約聖書の時代には名前を持たなかった彼女も19世紀では既にモチーフとして確立していた。オスカー・ワイルドの戯曲の内で、切り取られたヨカナーンの首とキスをした彼女の挿絵はヴィクトリアアルバートミュージアムに残されている。少女に対する愛好と執着によって作られた作品達は、一体どんな顔をどんな表情をしていることだろう!

私の旅の目的が果たされることはなかった。聞けばオフィーリアはオーストラリアに、サロメは日曜日休館の別館にいるという。
She is not here today.
館内スタッフの羽織を着た人々に響きのよいブリティッシュアクセントで別のプランを提示されてもその事実は覆らなかった。二作品とも相見えられないとは予期していなかったが、計画性もなしに突如二泊三日を目論んだ私が文句を言えるわけもない。
わかった、ありがとう、と口にして装飾が施された室内を練り歩き始める。いざ視点を広くしてみると、様々な年代の様々な人の手による美に囲まれる環境は何よりも陶酔的で、つくづく堪能する時間がないことが悔やまれた。高校英語で習ったターナーの移り変わる色彩も、友人が心酔していたラファエロ前派の輪郭線も、ふと手に取りたくなるようなウィリアム・モリスのデザインプリントもそこにあるというのに! 心残りは多々あれど、それらを見つけて、見つめて、私は足早に回廊を通り過ぎていった。

予約していたはずの席には既に赤いコートが置かれていた。豪華絢爛な劇場にも気圧されて立ちすくんでいると、左隣の女性がああごめんなさい、とふんわり微笑んだ。
「マンマミーアは来たことがある? 私、随分前に映画は見たのだけれど」
ジェンダーレスの短い髪型に、顔は上品にも浅く皺が刻まれていた。母ほどの歳だろうか、こちらの人の年齢の進みは私の知るものとは異なっていてわからない。
勧められたチョコレートを拝借して、舞台が始まるまで世間話を一つ、二つと重ねていく。
「初めてですね。歌は多少聞いたことがありましたが」
「ええ、ワールドワイドだものね」
満足げに口角を上げる彼女に、日本ではプチプラのランジェリーショップで流れているからだ、とは口が裂けても言えなかった。
実際、このミュージカルにそこまでの期待はなかった。ロンドンを訪れた友人達が口を揃えて行けと言うものだから、前日に慌てて名前を耳にしたことのある公演の一番安い席を押さえた。「音響機材の隣で一部観覧に支障があります」との言葉通りに、視界の端は遮られていたけれど問題はない。それよりも私は、寝不足がたたってくまの住み着いた目元と、広大な美術館を二つもはしごした足をしばし休められることに息をついた。

チョコレートをもう一切れいただいている間に案内が流される。照明が落ちる。幕が上がる。主人公が、三人の男性の名前を口にして、招待状をポストに投函する。バージンロードを共に歩く、まだ見ぬ父親を求めて……。
歌が始まる。役者が踊り、止まり、話し、また踊る。舞台装置はシンプルだが最大限の効力を発揮していて、役者の衣装もコンセプトがわかりやすい。全体の色味も照明も調和していて、ああ、そしてまた歌が。
知識人ぶることもできずに私は感動していた。聞き馴染みのある曲が、物語に沿って展開されていくというだけで目を見張るものがあった。何より、歌声に乗せて届けられた熱と圧に人々は同調し、拍手する。
我知らず身体を揺らしていると、バンドサウンドと役者の響きに混ざって、左からも声が聞こえた。最初は囁くようだったそれは、口ずさまれ、やがて歌詞が理解できるまでに大きくなる。
舞台上では主人公の母親とその友人達が、昔の衣装を持ち出して、若々しく高らかに歌いあげる。隣の女性がそれに音を合わせる。その瞳は大きくきらめいていた。
これがエネルギーというものか。
左を盗み見た私の脳裏に父の言葉が蘇った。
「女学院時代の仲間に会うと、あいつはおかしくなる」
同窓会から帰った母への揶揄をその時はそんなものだと流していたけれど、今はめぐりめぐって私を刺すように感じられて仕方ない。
母親としての顔が母の全てではない。わかっていたつもりであったが、いざ私が思い返してみても、過保護で心配性で、ヒステリー性のパニックを患った母しか浮かばなかった。そして、それを無意識に役割として押し付けていた私達家族に愕然とする。
画家達が作品の中に一瞬の少女性を抜き出して永遠となしたのとは対照的に、隣の女性も私の母も、いまだ心の内に少女を囲っている。年を経る中にも、歌が、恋が、友人が、つまり心に留め置いたものたちが情熱を燃やし、未来を志向させる。けれど私達は、母にとってのそれら宝物達を、切って捨ててはいなかっただろうか。
翻って我が身を考える。劇中で白いドレスをまとった主人公ソフィーは二十歳、私よりも年下だ。彼女もまた、人生を選択し、その瞬間を謳歌している。そうやって舞台の中央で観客を湧きあげるように踊る女優達に、マンマミーア!を熱心に勧めた友人の未来が見えた。エネルギッシュに命を邁進し、今もヨーロッパの街でミュージカルのような日々を熱望する友人の姿はきっとそこにある。

はたして、年配者となりつつある母に更に似てきた私は、くまと疲れの残る顔が電車の窓に映る私は、体力が落ちて咳がいまだ治らない私は、友人にとって情熱の引き金になりうるだろうか?私は今、果たして女優達のように輝かんばかりであるだろうか?日常のスポットライトを浴び、それに恥じない熱を持って生きることができるのだろうか?
Say I do, I do, I do !
カーテンコールの後も、女性ボーカルがりんりんと、押しつぶすように、そうと言えない私の中に鳴り続けていた。

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