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最期の記憶、僕はなにを思い出すのか。

もう土曜日だ。
今週はとてつもなく早かった。
仕事をした記憶は月曜日と金曜日の午後から。

それについては、クライアント・パートナーの方々、
会社のみんなにとても迷惑をかけました。

でも、私に時間をくれて、本当にありがとうございました。
いただいた時間のおかげで、心から向き合い、送れました。

突然だが、最近よく思うことがある。
情報爆発のこの時代に生まれた僕は、
最期の瞬間に何を思い出すのだろう。

地球全体でのデジタルデータの年間生成量が2013年は4.4ZB(ゼタバイト)だった。
これだけでも理解しがたい単位だが、2020年には44ZBになるのだという。

今の現代人なら聞き馴染みがあるGB(ギガバイト)に変換すると
44兆GBだ。
やっぱり意味がわからない。

それほどまでに情報が溢れ、新しい情報に追われている現代人。
友人がつい最近、こんなツイートをしていた。

「情報過多の時代だから、テレビやネットフリックス流しながら、ツイッターインスタ見てないとついていけない〜」

実際本当にそうで、僕も仕事柄SNSを転々としては
毎月データ通信制限をスレスレになって生きている。
仕事柄とはいいつつも、実際に好きなのもある。

時間の大半を使わせるインターネット・SNS。
1日に数百の投稿を目にし、インターネットの記事も数十本は流し読みしてる。
しかしそんな情報たちの大半は明日には忘れている。

大半の情報なんて忘れるんだよ、大切なものだけ覚えてるよ。
とは言いつつも、大切な何かも忘れてしまっているような気もする。

話は戻って、今週が早かったのには理由がある。

月曜日の夜、旧友と食事をしながら、仕事の話をしていたときに、
家族のグループラインがなった。
これといって珍しいわけでもないが、
ことがことだけに、その日は早めに締めさせてもらった。

そうして、締めた直後にもう一通、母からメッセージが届いた。

「先ほど、逝きました」

そう、僕が最も尊敬していた、祖母が亡くなった。

少し逸れるが、うちの会社を探すときに、いろんな人が読んでくださる記事がある。
昔、インキュベーションオフィスにお世話になっていた頃の記事がまだ残っていて、
その中にも書かせてもらっていた。こちらです。
https://www.gooya.co.jp/hub/members/nexter-tokyo/

話は戻って、そんな祖母が病気なのは知っていたし、もう長くはないとも聞いていた。
でも、こんなに早いとは思ってもなかったというのが正直な感想だった。

翌日、最低限の仕事を済ませ、九州に飛んだ。
それでも、電車が遅れて飛行機をずらしたりで斎場についたのは22時を過ぎていた。
斎場には通夜もほとんど終え、談笑をしている、うちの家族と、叔父の家族がいた。
そして、10ヶ月ぶりに会う祖母。
しっかりと死化粧を施され綺麗になっていた。
しかし、そんな祖母は10ヶ月前に会った姿とは見違えるほどに痩せていた。
正直、別人といっても過言ではないし、間違えてましたと言われたら、
そうですよねと言ってしまいたいほどに別人だった。
病気のせいでほとんど食事を摂れず、点滴と痛み止めの生活だったんだと。
そのせいもあってか、いまいち受け止めきれず、
一緒に寝られる最後の夜を家族一緒に過ごしました。

翌朝、祖母が入っていた老人会の友人方が来てくださって、
一緒に食べる最後の食事。御斎(おとき)というのだそう。

御斎を済ませ、家族写真を終えたら、とうとう告別式。
大好きな祖母だったが、このときに初めて知ることもたくさんあった。

・昭和12年5月15日生まれ
・20歳の時に北九州に嫁いできた。
・出身は大分県は日田市(いや、これは知ってたか)

誰よりも早く起きて店を開け、夜遅くまで計算や発注業務をしてる。
(あ、実家は酒屋でした。)
本当によく喋る人で元気をみんなに振りまいていた。
10をもらったら20にして返す人だった。

幼い頃の長期休みにしか帰らなかった僕だが、思い出はたくさんある。

祖母が作ってくれた料理で一番記憶にあるのは、オムライスだ。
それを従兄弟と合わせて孫5人分をバババッとつくりながらも店を回す。
今思うと、オムライスが好きだったのはここからなのかもしれない。

胃腸の弱い僕が夜中に起きると、合わせて起きてくれてなにか作ってくれていた。
(たいてい夕食が早かったから、深夜にお腹が空きすぎていた。)

遊園地にもしょっちゅう連れて行ってくれた。
昨年末に閉園したことで話題のスペースワールド。
昨年行った時こそガラガラで人もほとんどいなかったが、昔はとても栄えていて、お土産もたくさん買ってもらっていた。

小学校の臨海学校で氷砂糖を初めて食べて美味しいと言ったら、
一週間後に2キロの氷砂糖が送られてきたこと。
(これ以降、下手に祖母にこれが好きとは言わないようにということを覚えた笑)

他にももっともっとあるが、書いてたらキリがない。
また、喪主である叔父が挨拶の際に話してくれたエピソードがある。
ある日、叔父がお弁当を忘れて家を出てバスに乗っていたら、
3つ先のバス停まで先回りしてお弁当を届けてくれた。
そんな元気な祖母はまさしくサザエさんのような明るさで家庭を支えてくれていたんだと。

祖母はやはり天性的に明るく、人に元気を与える人だったんだ。

そんな思い出がどんどん溢れながら、棺に花を入れていく。
花に大粒の涙が落ちる。どうしようも抑えられなかった。

昨年には会えているし、今もこうして最後の時間を一緒にできている。
正直、悔いがすごいあるわけでもない。
それでも、泣くときは泣くのである。

祖母に孫は僕を含めて5人いる。
5人もいるのに、全員男だ。
祖母の最後の願いは自分の棺を5人のたくましい孫たちに持ってもらいたいだった。
その願いを5人でしっかりと叶えられたことを、祖母は知れただろうか。

火葬、納骨を終え告別式は終わった。
あの赤いスイッチは一生押したくないし、
右膝に人工関節を手術で入れていたことも初めて知ったことの一つだった。

式の全てを終えた後、今回帰省して初めて、家に向かった。
入り口を通ると鳴るのが、時代を感じる「いらっしゃいませ」
この音はずっと変わらない。
ただ、店にはもうほとんど商品もなく、様相が違っていた。
それでも、「おかえり〜」という声が聞こえてきそうだった。

もう一つ昔と変わらなかっとのは、居間に飾られたたくさんの写真。
僕が生まれて間もない頃の写真もあれば、最近の甥っ子の写真まで、
所狭しと飾られていた。
昔はタイマーもなければ自撮り棒ももちろんないから、
集合写真の時は撮影者が変わって、2回3回と集合写真をとるのだが、
祖母はみんなのことが好きだから、器用に切り貼りして、今でいう合成写真をアナログで作っていた。
そんな祖母は、どの絵を最後に思い浮かべていたのだろうか。
祖母にとって80年はどんな人生だったんだろうか。
いい人生だったのかな。

僕たちは今、ものすごく簡単に写真を撮れる。
2秒もあればカメラは起動し写真を撮っている。
なんなら、ものすごく可愛く加工することも容易になった。
昔はとっておきの日に撮っていた写真だが、
今はとりあえず撮っておいて、明日には忘れている。

祖母が最後に何を想い、旅立ったかはわからないけど、
忘れる情報が増えた僕たちはもっとわからない。

ただ、忘れたくないものも確実にあるわけで
大好きだった祖母の最後を忘れたくないと思ったから
今回、こうして文章にした。

祖母が生きた80年、僕の寿命が同じと考えると、あと52年。
それまでに何枚の写真を撮り、忘れていくのか。
大切なことはちゃんと覚えていられるだろうか。
流行や上辺、他人からの評価に惑わされずに歩みを進められるだろうか。

次々と情報が入ってくる今だからこそ、大切な記憶・忘れたくないモノは、思い出になるまえに、その熱量のまま記しておくことで、またいつか思い出したときに心も蘇ると思う。

最期の時に、素敵な記憶で溢れますように。

P.S.
最期に二つの手紙について話をさせてほしい。

一つ目は大切な人から祖母に宛てた手紙。
3枚の写真を同封して、送ってくれていた。 
もう目もあまり見えてなかった祖母がちゃんと読めたかどうか定かではなかったが、
封筒の表に、数行の返事が書いてあった。

僕と未来を、幸せを祈ってくれていた。そして家族を大切に、と。
自分が入院直前のことだろうに、そんな時にもかかわらず、手が震えながら書いてくれたメッセージだった。
2人には本当に感謝しかない。

もう一つの手紙は祖母の最期の手紙。
最後の方になると面会制限もあったため、会えない人に向けた手紙の中に一言。

『生まれ変わったら、ヒマワリになりたい』

戦時中に生まれ、20歳で嫁ぎ、2人の子どもに恵まれ、5人の孫に慕われた祖母の人生。

いい人生だったかは、自分自身でどう思うかだが、
周りを明るく照らし、家庭を支えていた貴方は間違いなく『ヒマワリ』のような人でした。

そう伝えてあげられなかったのが、
ほんのすこし、でもきっとずっと残る
悔いかと思う。

最後に改めてもう一度、
ご迷惑おかけしました、クライアント・パートナーの皆様、会社のメンバー、気にせず行ってこいと言ってくれた社長。
本当にありがとうございました。


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