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「なぜ僕はライターになったのか」その二 「ハワード・ジョーンズに憧れたからこそ」!?

まあ、ライターといってもいろんな立場の人が居る。僕がライターになりたいと思ったとき、ある職業ライターに尋ねたらライターとは「編集から言われるがままの如く先方の要望に応え、文章を執筆する者」と説明された。つまり音楽雑誌の評論家なんかはこれに該当しないようなイメージだ。

だがそもそもライターって平たく言ってしまえば「文章を書く人」で、その意味では誰かの言いなりだろうが、逆に誰の言うことも聞かない唯我独尊を地で行くような立場だってライターになり得るんじゃないか。なんてことをよく考えたりする。

実はこの問題、ライターという仕事をしている人にとっては結構難しく厄介な問題なのだ。というか、こういう誰かの勝手な意見で決めつけたような思想は、できるだけ聞かなかったことにするのがイイのかもしれない。もしあのライターさんに聞いた話が、この業界でどこにいても共通のことだったら、大変な問題になるんじゃないか?というのも「言われた文章を書くだけ」がライターの仕事なら、それはいずれ機械化の対象となって人間の仕事ではなくなると予測されているから。

もちろん自分の思いばかりを書いて金になるのかといえば、そうではなく相手に譲歩した分だけ受け取れる金は大っきくなる可能性がある。でも譲歩するばかりではその仕事自体を自動化される可能性もあるわけで、自分が「ライター」、文章の執筆者として仕事を続けていくには、やはり自分でないと書けないもの、つまり自分の思いがどこかに反映されたものを作っていく必要があるのではないだろうか。

まあどっちの意見もありといえばありなのだから、この問いに対する答えを追い求めてもしょうがないような気がする。だからとりあえず、自分の中では「文章を書く」ことが生業となっている人ということになるのだろう。

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で、まあその生業にまでしてしまったというのはなぜか?会社を辞めこの仕事へとシフトしたころのことを思い出すと、どうも成り行きというか行き当たりばったりだったような気がする。まあ会社が嫌だったから、自分の裁量で仕事ができるから、自分には文章を書くくらいしかできないから、いろんな理由があったが、つまりは突き詰めると消極的な理由だったのだろう。

だがそんなことを考えていると、改めて一つの疑問に行き着く。そんな打算的な理由だけで今ここまで来てしまったのだとしたら、ライターなんて仕事はとっくの昔に辞めているんじゃないかという思いが湧いてくるのだ。金なんて他の仕事をした方がよっぽど儲かるだろうし、楽だってできる。結構年も取ったから、僕自身もこの仕事向きの立場には正直ない。

そして、会社を辞めたころからはるか離れた月日の中で、自分には「モノ書きになりたい」という思いがあったことを辿るようになるのだ。

で、昨年ふと目が留まった一つの光景に、その自分のルーツを認識したことがあった。

それこそはタイトルにも書いた「ハワード・ジョーンズ」というキーワードだった。

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ちょうど自分が中学生のころだっただろうか。当時は80'sのアーティスト隆盛の時期で、テレビなんかで放送されていたMTVなどの音楽番組で見たアーティストに魅せられていた時期だった。

そのころ僕の目に留まったアーティストこそが、ハワード・ジョーンズだった。

80年代でシンセサイザーなどのサウンドを前面に押し出した作品というと、YMOをはじめクラフトワーク、プロパガンダ、あるいはJazz界からハービー・ハンコックなんてのもあったか。MTV放送の第一号となったバグルスなんてのもあったか。どちらかというとまだテクノとかシンセサイザーサウンドというものが、無機質な方向にありマニアの聴くサウンドと見られがちな時期にある中、ハワード・ジョーンズはかなりポップなテイストをサウンドにまぶし人気を博した。あのキラキラしたエレクトリックサウンドは80年代音楽の一つの特徴でもあったように思うが、彼はその先駆者であったと思う。

まあそんな評論家的な文面は置いておいて、とにかくそのライブステージの彼の姿に魅かれた。複数のキーボードをステージに並べ、それを流暢に弾きこなしながら歌い、皆の気持ちをどんどんと引き込んでいく。イマドキのロックバンドのライブステージは、なぜかやたらと「コールアンドレスポンス」だのなんだのと、無理やり観衆を煽って自分たちの音を観衆に伝えていく。だが彼のステージは、どちらかというと観衆の動き、見られているということに対して全く関知していないという感じすら見えた。ただひたすらキーボードをプレーし、歌い、リズムを刻んでいく。

それでも見ている側としては、その彼の動きにドンドンと引き込まれていき、今歌っていることが何なのかを心に留めようとしていた。

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あの時の気持ちを、自分の中でずっと考えていた。彼に憧れ、彼になりたいと思っていた。

だがやがて楽器をはじめたりして彼のような立場に近づこうとすると、それは単に「ミュージシャンになりたい」とかいう思いとは違うものなんだ、という認識にたどり着く。

そう、一人でキーボードを叩き、時には踊り、高らかに声を響かせる。その姿が今、僕の頭の中で「ハーメルンの笛吹き男」の主人公にダブって見えてきたのだ。

直接誰かに叫び語り掛けるわけではないけど、彼がそのステージを披露するとそこに惹き付けられてしまう。

「ハーメルンの笛吹き男」というとあまり印象は良くないかもしれない。なにしろコワイ物語の張本人となる人物だし。

だがなにか押しつけがましいことを言うわけでもないのに、人の心に留まって引き付けやまない、そんな彼の立ち位置に憧れた。

僕は小さなころから、自分の思いを人に伝えるのが下手でコンプレックスとさえ思っていた。

「こうだと思うんだけどな…」なんて思いが自分の中であふれながら、その思いを思い切りぶつけると否定されて終わり、そんな展開が怖くて気持ちをため込むことも多かった。

思い切ってその思いをさらけ出し、墓穴を掘ったことも数知れず。

そんな自分にとってジョーンズは、誰かと意見を戦わせることもなく人の心を引き付ける。そういったスタンスに僕は憧れたのだろう。

そして僕自身は、そんなにルックスもいいわけでもなく音楽的才能もない、絵が描けるわけでもなくメディアにアピールできるセンスや才能があるわけでもない。

「でも文章ならなんとかなるかな」そんな気持ちで、モノ書きになれないかという思いは意外に昔からあったような気がする。

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そんなわけで最初に僕にアドバイスしてくれたあのライターさんには申し訳ないのだが、あなたの言う「言いなり」ライターというのは、自分の目指すところではないと今、はっきりと認識している。

僕は自分自身のことを相変わらずライターと呼ぶけど、「言いなり」の文章も書きながらどこかで自分の思いをぶち込んだモノも書けるよう、もがいてやる。

でないと、自分はやはり自分の居場所を失ってしまう気がしてならないのだ。

最近は今を生きる術の一つとしてライターという職業を考える人もいるみたいだ。

地方に移住して、webライターとしてリモートワークを続ける。見栄えもかっこいいし、スマートに生きていけるような気もしてくる。でもそれは自分には無理だ。

そんな思いは「ライター」という立場からすると致命的なのかもしれない。今の時代からするとなおさらそういう気もする。

それでも苦しみながら「これこそが自分の立ち位置」という安息の場所にたどり着くことを目指したい。

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