【読書】世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学
久々の読書感想文です。気になった(気に入った)ところをピックアップして書いていきます。(本文はもっと深い内容です)
世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学
近内悠太
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贈与とは何か
一般に、贈与というと土地、金銭、税金というようなワードが浮かんできますが、ここでいう贈与はそれらとは全く異なる概念です。
まず最初に贈与は、資本主義者社会の「交換」に対比される言葉として語られます。
著者は、割りに合うかどうかの観点でのみ物事の成否を判断す思考法を「交換」の論理と呼びます。贈与は見返りを求めない、対価を求めるのであれば、「交換」になる( P42)、
自己の利益を求めての行為を「贈与」に見せかけることを「偽善」と呼ぶ、などなど。
「助けて」ということ
次に「交換」と「贈与」の観点から「自由」な社会を分析していきます。
僕らが困窮し思わず誰かに助けを求めるとき、交換するものを持ち合わせていないからこそ、「助けて」と声にするのではないでしょうか。(P53)
つまり「贈与」を失い「交換」のみで成立している社会は、「助けて」ということが原理的にできなくなるという主張です。なんとなく肌感覚で分かっていた話を明瞭にしてもらった気がします。
贈与は受け取った時点では気づかない
- 贈与は受け取った時点では気づかない、
- 贈与は気づかなければ贈与にならない、
というのは本書の中盤のポイントだと思います。
そして贈与とは「郵便の誤配のようなものである」というメタファ?が提示されます。
このあたりはサンタクロースの例や、徘徊する認知症の母親の例など、興味深い事例をもって説明がされていきます。特に「徘徊する認知症の母親」の話ではむーーんと心の中で唸ってしまいました。
逸脱的思考
さらに贈与に気付くためには、という展開で「逸脱的思考」の項において「小松左京」の名前が上がってきます。
大ファンと言わないまでも、学生時代に小松左京さんの短編を読んで世界観が変わったような体験をしているだけに興味津々で読み進みました。
贈与に気付くためには、常識を疑うような観点が必要です。確かにSFは非日常の発現がひとつのカテゴリとして確立しています。(ファンとしてはラリーニブンの”無常の月”とかも例として良かったかなと思ってしまいます)
非日常の発現を通してSFの読者は、現実の日常を疑いの目で見ることができます。ここら辺が「逸脱的思考」であって、気づくことができなかった「贈与」に気付くための世界認識へのゆさぶりです。
他にもテルマエ・ロマエの例なども上がっていて例が分かりやすいです😃
おわりに
この本を読むと、ひょっとすると、なんとなく感じていたことが順に説明されていく感じは受けると思います。これをもってつまらないと思うか、興奮するか(糸井重里さんいわく)は個人差があるかと思いますが、自分は面白い本だと思いました。特に中盤の展開で
- 贈与は受け取った時点では気づかない、
- 贈与は気づかなければ贈与にならない、
- 気づいた時点で贈与になる
は興味深い考え方でした。
以上でおわりです。