栄光の80'sアメリカン・ポップス回想記①プリンス

きょうはこの続きを書きたいと思う。

「When Doves Cry」はアルバム「パープル・レイン」に入っていたのだけど、その表題曲「パープル・レイン」が大ヒットになるなら、理解できる。時を経ても色褪せない壮大なアンセムだ。

「パレード」でも同じような現象が起こっているように思う。

このアルバムで一番素晴らしい曲は、何といっても「アンダー・ザ・チェリー・ムーン」なのではないか?

しかしながらこのアルバムでの大ヒット曲は、「kiss」である。

キャッチーさは、正直言って無いと思うし、実験的要素は面白いが、完成度も、「アンダー・ザ・チェリー・ムーン」には劣ると思う。

なんかこういう不思議な現象がこの人の周りでは常に起こっていたのではないか。

例えば、デビューしたばかりの頃に、ローリングストーンズの前座をやって、ブーイングの嵐だった、そしてライブ後、プリンスは楽屋で落胆して泣いていた、というエピソードがある。

このエピソードにしたって、「なぜ、世界的白人ロックバンドのストーンズの前座だったのか?」という疑問が出るのは自然なことだろう。

普通に考えて、ストーンズの前座なんて、よっぽどの期待の新人でないとできないだろう。しかし、ストーンズのオーディエンスが、プリンスの音楽を理解できるとは思えない・・・。

クオリティに比例しないセールス、シナジーを生まないコラボレーション・・・

これらは、天才を世の中がどう扱えばいいのか、わからないため、しばしば(というか常に)、人はその人に対する判断を誤る、ということを示すエピソード、と言えるのではないか。

そういう意味では、プリンスという人は、不遇でもあり、強運でもあった。

クインシー・ジョーンズとは、「ウィーアーザワールド」、マイケルの「BAD」という二つのコラボのチャンスがあったが、ついに、その軌道が交わることがなかった。

ただこの二人、相性はよくないと思うので、必然なのかなと思う。

何しろ、「整理の達人 VS 破壊の達人」、「チームの力 VS 個人の力」、と、相反する要素には枚挙にいとまがない。

でも二人とも真に創造的な音楽家であったことは間違いない。

スティービーとプリンスは同じステージに立って、ギグを見せてくれた。

マイケルとスティービーも何度もデュエットしている。

しかし、マイケル&クインシーとプリンスは、コラボを見ることができなかった。

これは、非常に残念なことである。

シーラ・Eには頑張って、ウィーアーザワールドのセッションに、プリンスを呼んで欲しかった・・・!!

しかし、この頃は、ポップス、しかもアメリカのポップスが、本当にキラキラと輝いていた時代である。

今は、韓国が元気な時代。日本のポップスは、結局内需が大きいので、ガラパゴス化したまんま、という印象である。

またこのテーマ、つまり80年代の黒人音楽史については、何か思い出すことがあったら書いていきたいと思う。

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