熊野古道で仕事と天職を考える
私を山の仕事に導いた人がうちに来た。
彼女は私に料理を教え、家のあらゆるところを美しくして帰っていった。
私が母に渡され、捨てるのも忍びないから部屋にほったらかしておいた紙のお守りの前にお花が飾られてるのをみた時、あ、この人好きだなと思った。
そんな彼女と熊野古道を歩いた。
私たちが今回歩いたのは発心門王子〜熊野大社まで。
平坦な道と下りばかりのなかなかイージーな道である。
身も蓋もないことをいうが、道中特にこれといった見どころはない。
見どころ目当てではなく、なんでもない森の中から何かすてきなものを見出せる方や歩いているだけで楽しいですという方におすすめなコースである。
私は林業の仕事をしていて、職場は山である。
山で働くと、休日まで山に行きたくないわぁという気持ちになる。作業員あるあるである。
そんな私が熊野古道を歩く気になったのは、のりまきさんという方のnoteを読んでいて、(#春の紀州熊野古道旅でnote検索しましょう)
熊野古道ってなんだかとても魅力がありそうな場所なんだな、と知ったからだ(しかも車で行ける距離だし)
文章は世界を広げる。
古道を歩きながら、
「このシダ刈りやすそうだな〜」とか、
「ここ足場取りやすそうでいいなぁ」とか考えたりした。
同行者の彼女も林業関係者なので、「この木は何年生くらいかな」と言ったり、
シャーペンの芯くらいの細さの杉をみて「間伐してない……」と震えたりしていた。
もう普通の目で全然山の中を楽しめてないんである。
山に毎日行っているとマイナスイオン浴びれそうと思われがちだが、
基本暑すぎたり寒すぎたり、身体がしんどすぎたりするのであまりそれどころではない。
景色を眺めながら、ゆっくり木の下を歩いて、根っこに足を取られたり、
疲れた、あと何分かかんねんとぶつくさ言いながら、
私、木に囲まれたこの空気感好きだった
この緑いっぱいの景色好きだった
とたくさん初心を思い出した。
私が大学生で林業就活をしていた時、
各地で作業員たちが現場にタバコの吸い殻を捨てたり、ペットボトルの空を放ったりしている姿を見た。
がっかりした。
山に何しにきとんやろと思った。
作業して、山汚して帰るんが仕事か、と思ったら人間様ってほんま偉そうやなと思った。
けれど、山勤めが2年目になった私は変わった。
テープの切れ端や輪ゴムを落とした時「もうええか……」と思うことがある。
視界にゴミは確実に入っている、
少しかがめば余裕で届く、
それでも拾ったゴミを持っとくのも邪魔くさい、また落とすかも、そしたらまた拾うかどうかで3秒ほど葛藤する、
そもそもこんな些細なゴミより大きなゴミが既に現場には落ちてる、
ゴミを拾うより作業を進めるリズムを崩すことの方が気になる、
「もうええ」ことにしてしまったこともある。
何度か。
、、、いや、何度も。
偉そうや。
偉そうや、私が。
山に入るのも、周りに人より木がいっぱいなのももう新鮮じゃなくなってしまった。
もういちいち山からの景色で息をのめなくなったし、お昼休憩の時に見える空のうつくしさも、季節を移す山の色にもすっかり感動は減ってしまった。
でも、慣れたのは、続けたからだ。
それは残念なことではない。
ー
私の仕事に対する文章を読んで、高校の同級生が「林業はゆいちゃんにとっての天職やね」と言ってくれたことがあった。
嬉しいけど、M美、あんたはわかってない。
いや嬉しいけど。
天職とは、生まれながらの性質に合った職業や、天から授かった職業のことをいうらしい。
退屈な要約だが辞書的な意味は「向いていますね」的なことかと解釈した。
であるなら私、冷静に向いてはないのよ。
「男社会の業界で私は女性だから」とかそういうすぐ人が連想しそうなつまらん理由じゃなくて、私が私だから。
できてないな、だめだな、全然だな、一年半もやって、なんでこんなに頭に何も入ってないんだろうとふしぎに思ってつらいこと、ある。
でも、楽しい。
出来てないとかは、関係ない。
出来てはないけど、人より時間かかるかもしれんけど、初めよりは出来るようになってるのを感じるもん。
自分なりに自分のペースで出来るようになるのも、私は楽しい。
外で動くの気持ちがいいし。動いて食べるご飯は美味しいし。集中して作業するのも好きだし。
自分が死んでも生き続ける生き物を、地面に植えるのも楽しいし。
だから、落としたゴミで記事一つ書いちゃうのもどうかとは思うけど、
でもそれが私にとって大事なの。一大事なの。
落としたゴミを拾うのは仕事ではない。
これは、完全私個人の感受性の話だ。
山に捨てたゴミは土に還るという説だってある。それでも私が気になるならアウトだ。山的にセーフでも、自分ルールに引っ掛かるならそれはダメだ。
熊野古道を歩いただけで反省してしまうなら改めるべきだ。
仕事に自分なりの価値を、意味を、意義を見出すのが、私なりの「働く」楽しさだ。
ゴミを拾うのは、自己満足だ。
私は金のために働くことはできても、
金のためだけじゃ楽しめない。
だから、仕事をするのは社会や人の役に立つためでも、山のためでも、ましてや金のためでもない。
楽しいから。
明日もやりたいから。
好きだから。
向いてなくていい。
天職じゃなくてもけっこう。私は続ける。
今は出来なくても大丈夫。
熊野古道の木々たちになんだか励まされた気がした。
明日から、ほんのちょっと、いつもより丁寧に仕事をしよう。
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