おどるということ。
〜山形ビエンナーレ2022のふりかえり②
前回の続き。。。
山形県内外から集まった、約20名ほどの仲間たちは、数人ずつのグループに分かれて、"ある人の様子"を記したテキストからダンスをつくっていったり。
ペアになって、それぞれを知りながら、クリエイションを重ねていったりと。
その日が始まるまで、何をするのか全くわからない状態での作品づくりが重ねられていった。
県内各所から参加した仲間たちにとって、月1回のクリエイションでは、コミュニケーションが取りきれないところもあったので、zoomを活用したオンライン懇親会(これが、なかなかおもしろい。)なるものも数回開きながら、なんとなく為人がわかっていくと、なんだか馴染み感のある、ダンスカンパニーが出来上がっていた。
そして、
山形ビエンナーレ2022「まちのおくゆき」の作品のタイトルは
『さわる/ふれる〜ここにいない人と踊るためのエチュード』
に決まった。
…はて?
"ここにいない人と踊る"
とは。。。
なんだろう。
だれだろう。
クリエイションに集まった、実在するひと達との時間のなかで、ここにはいない人を思う。
という、なんとも不思議な感覚を探していく作業があった。
わたしの身体が向かう先。
すぐ隣にいる人と踊りながら、そこにいない誰かに伝えようとする踊りとは?
正直なところ、今もよくわかっていない。
でも、言葉だろうと、身体だろうと、
何かを届けようとする先は
目に見えている世界の中だけでなくていい。
むしろ、踊るという行為の原始的な部分は、見えないものへ向かって、想いを届けていたのではないだろうか。
だから、そこに言葉とはまた違う周波数の伝達が立ち上がっていったと思うし、参加した仲間たちの身体の感度みたいなものも、とても高くなっていったんだと思う。
OriHimeを通して、共に踊ったさえさんの存在を仲間たちがしっかりキャッチしていたのもそんな理由からではないだろうか。
そこに、一緒に活動を続けていた、言葉でのコミュニケーションのなかったダンスチームのメンバー2人を参加させることができたことは、わたし自身の喜びとはまた違う喜びがあった。
仲間たちの中で、どんどん表情が豊かになり、臆することなく関わりをもつ身体に変わっていった2人を側で見られることが
本当に嬉しかった。
そして、公演の日はあっという間に訪れた。
この作品は、会場となったQ1の2階の廊下や部屋の各所で同時多発的にダンスが進行し、観客はフロアを動きながら、その時々の作品のなかに入って観ていくという、変わったものになった。
つまり、
出演者も観客も誰1人として全体像を観ることができない。
でも、それは、私たちの日常と同じだとわかった。
見ているつもりでも全てが見えることなんて不可能だということ。
私たちは、
見たつもり・わかったつもりで物事を捉えているし、そうせざるを得ないのだ。
それを、私たちの身体と作品として立ち上がった時間をもって伝えていたと思う。
見たつもり・わかったつもりで物事を捉えていることを前提とした時、
なにかに向かいあう時の私はどう在るのか。。
そんなことを考えさせられた。
おどるということ
その答えを見出すには早すぎるし、まだまだ答えを探すためのプロセスを味わいたい。
でも、踊るということは
平和であるし、生命の豊かさだとおもう。
おわり。
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