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芸術と牢獄はいつも隣人である 第一部

0.プロローグ

 「こんばんは。チリという小さな国からやってきました」

 2016年2月28日、第88回アカデミー賞授賞式会場となったハリウッドのドルビー・シアター。華やかなスターで埋め尽くされた客席、世界中で生中継を観る映画ファンに向け、プロデューサーのパト・エスカラ・ピエラルトはこう続けました。「これはチリの映画が受賞した初めてのオスカーです」と。

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 チリ映画界に初の栄誉をもたらしたのはアカデミー短編アニメーション賞を受賞した10分間のアニメ映画「Bear Story」(2015)。ぜんまい仕掛けのオルゴールを持つかわいらしいクマの物語です(動画サイトで観ることができるので是非)。

 スピーチを引き継いだ監督のガブリエル・オソリオ・ヴァルガスは締めくくりました。「彼のように国外追放され苦しむ人が二度と現れませんように。私が映画を作ったのはそのためです」

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 彼とはヴァルガスの祖父のこと。1970年代のピノチェト政権下で国外追放された祖父からインスピレーションを受けてこの映画は作られました。チリの観客たちはすぐにこのクマの家族の物語がピノチェト政権下の寓意だと気づきます。

 同じ2月のこと。2016年の第66回ベルリン国際映画祭でもチリ映画の躍進が目立ちました。サンティアゴの路上で同性愛の青年が殴打され殺害されたDaniel Zamudio事件に基づく「Nunca vas a estar solo」(You'll Never Be Alone, 2016)をはじめ3部門で4作品が受賞。前年の同映画祭ではチリ映画として『ザ・クラブ』(パブロ・ラライン監督, 2015)が審査員グランプリ、『真珠のボタン』(パトリシオ・グスマン監督, 2015)が脚本賞をダブル受賞していました。

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 パトリシオ・グスマン監督『真珠のボタン』(2015)。 西パタゴニアの海底で発見された真珠のボタンから先住民大量虐殺やピノチェト独裁政権下で殺された犠牲者たちの歴史を紐解く壮大なドキュメンタリー。

 というわけで知られざるチリ映画の世界を少し紹介してみたいと思います。

1.チリの歴史、映画の歴史

 チリで初めて映画が紹介されたのは1896年。パリでリュミエール兄弟がシネマトグラフを公開してからわずか8ヵ月後のことでした。当時チリは鉱山資源を世界中に輸出して経済的発展を遂げており西欧と密接な関係下にありました。1891年のチリ内戦で大統領が失脚して「強い議会、弱い大統領」の議会制が定着し、明治維新と同じくらい早く民主化が進展した先進的な国家でもありました。

 戦後はチリ大学に実験映画学部が作られるなど映画づくりが盛んになり、1960年代に隆盛を迎えます。この時期のチリの映画産業は「ヌエヴォ・シネ・チレノ」(チリ・ニュー・シネマ)と称され、100本以上の映画を撮ったことで知られるラウル・ルイス監督(1941-2011)など多様な人材を輩出しました。

 しかしチリ映画界に激震が訪れます。1973年9月11日の軍事クーデターでピノチェトが政権を掌握。以降は文化活動が厳しく統制されます。パトリシオ・グスマン監督は独裁政権を批判する命がけの大作ドキュメンタリー『チリの闘い』(1975-1979)を作り上げますが(実際にスタッフの何人かは殺害されました)、映画産業はここから衰退の一途をたどることになります。

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 4時間にわたるドキュメンタリー『チリの闘い』。第一部『ブルジョワジーの叛乱』(1975)、第二部『クーデター』(1976)、第三部『民衆の力』(1979)から成ります。日本ではリマスター版が2016年に初公開されました。

2.受難と復活

 ピノチェト独裁政権はチリ映画に深い傷痕を残しました。 多くの映画監督やプロデューサーが自由を求めて欧州に脱出し、 帰ってきた人もいれば帰ってこなかった人もいます。

 クーデター直後に妻と脱出したラウル・ルイスは亡命先のパリでも旺盛な活動意欲を見せ、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『見出された時 「失われた時を求めて」より 』(1999)やジョン・マルコヴィッチ主演の『クリムト』(2006)など5回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出されました。フランス映画に南米のマジック・リアリズムを持ち込んだのは彼の功績によるところが大きいと言われています。遺作の『ミステリーズ 運命のリスボン』(2010)は267分に及ぶ長大な叙事詩でした。 

 チリを愛してやまない彼は2000年代にチリに戻り、大学で教鞭をとって後進の育成に努めました。2011年にパリで亡くなりましたがその遺体は遺言どおりチリに埋葬され、葬儀の日はチリのNational Day Of Mourningとされました。

 まったく違う形でチリへの再入国を果たした監督もいます。 ピノチェト政権以前にチリで最も人気だった映画のひとつ「Jackal of Nahueltoro」(1969)を撮ったミゲル・リッティン監督は1984年にスペインからチリへの密入国を決意します。偽のパスポートと偽の妻を用意して別人になりすまし、ひそかにドキュメンタリーを撮影するために乗り込んだのです。このドキュメンタリーは日本語に翻訳もされピノチェト政権下の雰囲気を日本語で理解できる最も重要な映像といえます。

 彼の潜入記はノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスによって『戒厳令下チリ潜入記 ある映画監督の冒険』(岩波新書)としてノンフィクションにまとめられましたが、この本は出版後チリ政府によって1万5000部が文字通り「焚書」されることになります。

 1988年の国民投票で敗退し1990年にピノチェトが大統領を辞任して民主化が実現すると、息を吹き返したように勢いが戻ります。映画産業のための基金がいくつも創設され人材も戻ってきましたが、チリ国民はハリウッド映画に熱狂し、観客動員という面ではしばらくはあまり伸びませんでした。

 この流れを変えたのが1999年。Cristián Galaz監督の「The Sentimental Joker」が当時のチリ映画の興行収入記録を破る大ヒットを見せました。2000年代にはモントリオールやバンクーバーなど国外の映画祭でも徐々に受賞作が出るようになります。

 そしてそんな中から彗星のごとく現れたのが、現在のチリ映画界を背負って立つ天才、そう、パブロ・ララインです。

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パブロ・ラライン(左)と盟友ガエル・ガルシア・ベルナル。


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