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『燃ゆる女の肖像』と中絶について

 『燃ゆる女の肖像』における中絶のシーンについて、ジェンダー研究者のCassia Rothが書いた記事"Portraying Abortion in Portrait of a Lady on Fire"を翻訳して紹介します。

 過去10年間の映画やテレビにおける中絶の描写は、いっそう複雑なものになっています。『JUNO/ジュノ』(2007年)では、予期せぬ妊娠をした主人公が養子縁組のために子を手放すことを決意します。現実における難しい選択が示されていますが、養子縁組に焦点を当てることで中絶を回避しています。

 一方「Obvious Child」(2014年)では、予期せぬ妊娠に対して中絶を選択します。『愛しのグランマ』(2015年)は、祖母と孫娘が中絶費用を得るためにLAを横断するバディコメディです。裕福な親や社会的ネットワークを持たない多くの米国民にとって、中絶は簡単な方法ではないことを示しています。

 最新の映画では、中絶手術のためにNYに向かうティーンエイジャーの話『17歳の瞳に映る世界』(2020年)があります。

 ほとんどのTVや映画では、実際の中絶シーンが描かれることはありません。チャウシェスク政権下のルーマニアで2人の女性が中絶しようとするパルム・ドール受賞作『4ヶ月、3週間と2日』(2008年)はその例外の一つです。しかし、この男性監督クリスティアン・ムンジウは、中絶シーンをレイプに近いものとして表現しています。「片手では仕事をしているが、もう片方の手は若い主人公の無防備でおびえた体を愛撫する」といういかがわしい男性の医者の姿が映し出されます。

 だからこそ、最近公開されたばかりの映画『燃ゆる女の肖像』で、微妙で複雑な中絶のプロットラインを目にしたとき、私は嬉しい驚きを感じました。

 この映画は1770年代のブルターニュを舞台にしたラブストーリーです。画家のマリアンヌは、結婚を望まない貴族の娘エロイーズの絵を描くよう依頼され、二人の女性は恋に落ちます。中絶のプロットには一家のメイドであるソフィーが関わります。マリアンヌとエロイーズは、ソフィーが中絶手術を受けるのを助けることになります。

 セリーヌ・シアマ監督は、中絶のプロットは「2つのシーンで構成されている」と語ります。中絶そのもののシーンと、その絵を描くシーンです。

 ソフィーの妊娠が分かった翌日、3人は散歩に出かけ、植物を採取してハーブティーを作ったり、流産を促すために重力を利用しようとぶら下がったりします。中絶と女性の歴史を研究している私にとって、こういった方法は馴染みがあるものです。これらの民間療法はうまくいかず、地元の助産師のもとを訪れます。

 中絶のシーンは心奪われるものです。ソフィーがベッドの上に横たわって助産師がソフィーの身体に手を入れている間、小さな赤ちゃんが彼女の隣に横たわって顔や手をつかんでいます。これは中絶と母性のニュアンスを提示するための強引な手法のように見えるかもしれませんが、『ニューヨーカー』紙のレイチェル・サイムは、「あの狭い家の中で赤ちゃんがベッド以外にどこにいるのでしょう。ベッド以外で他にどこで手術をするのでしょう」と、自然なシーンであると指摘します。

 シアマ監督の言葉を借りれば「中絶をするのは子供が欲しくないからではない。中絶は女性が主体的に選択して、望むときに子供を産むためのもの。それを観客に伝えたかった」と、このシーンはそのような効果をもたらしているのです。

 中絶の翌日の夜、エロイーズはソフィーに、絵のポーズをとれるほど体調が回復したかどうか尋ねます。エロイーズが助産師役、ソフィーが自分役となり、マリアンヌが中絶の様子を描きます。しかし私は、このシーンでソフィーの存在が抜け落ちてしまっているように感じました。ソフィーはマリアンヌのために絵のモデルとなることを承諾しますが、これはエロイーズの発案であり、描くのはマリアンヌです。ソフィーの社会的地位の低さは、シスターフッド(もし存在するとしたら)が階級や人種の違いによって特徴づけられていることを思い出させます。ここでは私はソフィーに主導的な立場に立ってもらえたらよかったのにと思いました。

 この映画はとてもパワフルです。男性はほとんど登場せず、男性の存在は生身の人間ではなくある種のメタファーでしかありません。そしてなにより中絶のシーンは真に迫るものがあります。

 これは実際に存在した女性の経験に根ざし、女性のまなざし(female gaze)によって、女性のために作られた「中絶」の物語です。望まない妊娠に直面することが女性にとってどういう意味を持つのかを視覚化するための新しい方法を開く鍵となるはずです。


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