映画『シン・ゴジラ』 特撮サヴァン症候群

写真は「後日掲載します」

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2024/02/08 初稿
2024/02/XX 写真掲載予定
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 太平洋戦争終結から約10年後。瓦解した社会の再建が整いつつあるその真っ只中、映画『ゴジラ』(1954年)が公開された。
 初代ゴジラを現在の視点から見れば合成は拙く感じ、ノスタルジアか、異世界を想起されるのではないだろうか。だがその当時を生きた日本人が見た「ゴジラ」は別物だったのかと思う。瓦解していく、瓦解した街並み。野焼きとは異なる物が燃える匂い。粉塵。燻った後の街並み。伴う匂い。
 沈床の最中に不幸なものを態々見たくはない。精神的裂傷を金を払い促進させるというのは怠惰な自死か、仮想の死体験であろう。
 ではなぜ東京が怪獣により再び破壊される映像を観るかといえば、戦後復興が進み、暮らしが上向き「あの時は辛かった」「皆んな貧しかった」過去の辛酸を懐かしえれる時代になったからではないだろうか。その体験とは即ち多数の共通譚である。つまり物語の基礎工事が完了しているともいえる。
 少なくとも太平洋戦争後、関東圏在住で、帝都大空襲を生き延びた当時世代には的面だったかと想像する。破壊された現実が其れほど遠くない時代、過去を思い起こすのに十分な時間、再建するのに必要な時間を経過した当時の人々は、スクリーンに映し出される映像に体験を乗算し、娯楽として大いに興じれたはずだ。
 自身が暮らす地域、及び隣接地域が大河ドラマに関わると、画面向こうの土地、遠い過去に近づこうとする私体験からも、推してしるべしか。
 人が物事を都合よく捉えるかは「記憶」から見える。「記録」より優先される記憶とは、どう装飾するかの違いはあれど加工されるものであり、大なり小なり間違っていく。
 この論考は数百年後にも通用するはずだ。何故なら当時性はその時間を生きた、その環境で暮らした人々でしか共有出来ないため。そうではない世代は人々の記録から思いを想像し続けるのである。太平洋戦争市終結後から10年という年月は、余剰も含み必要な時間だったのだろう。
☆私は匂いとは記憶を想起させる前駆だと確信している。

「サヴァン症候群」とは記憶を精密に留める才能であり、それは限りなく記憶に近しい。その記憶対象は人によって異なり、『シン・ゴジラ』に関わる製作陣は、映像という記憶媒体を自己書庫に強烈に記憶しているのかと想像する。映画界が生み出した作品が生み出した映画の申し子ではないだろうか。
 スクリーン向こうの現実にゴジラが立脚するというのは、動物園の猛獣を見る行為に近しい。隔てる檻が縦糸と横糸で編まれた虚構か、鉄製の格子かの違いはあれど、スクリーン向こうに本当に怪獣が居ると思わせるために必要なものとは縮尺の超現実、ザ☆ジオ・ラマであり、あの箱庭が虚構の基礎骨格であり、檻であり骨子である。
 箱庭がなければ「怪獣」に畏怖は宿らず、着ぐるみに帰したであろう。SF作品の質、いや根幹とは舞台美術であり、金のかかっていないSFは全てがコメディーと化す。そのテーマや演技がシリアスである程に戯画に絡め取られ、目指すべきとは異なる部分で笑われていく。
「でかい。怖い。おっかねえ」猛獣が、怪獣が、檻やスクリーンの向こうに居る実感と、同時に畏怖を隷下に置ける身の安全が前提とされることで娯楽となり得る。
 子供には本能に希求するもの以外の先入観はない。それ故それっぽい文脈では彼ら彼女らを騙すことは出来ない。ビジュアルの強度がそれが私の中での特撮であります。
 虚構を映像として表すことは如何に恐ろしいことだろうか。其れ故、並々ならぬミニチュアによる日本の都市再現を「手先が器用」という小手先の奉りは乱暴だ。雑誌『ホビージャパン』に出展されるプラモデル作品の数々。その作り込みは現実でもない、虚構でもない、異世界のらしさが匂い立つ作品があるように、そのスケールを都市や山間、はたまた海向こうから現れる祟り神の舞台装置に作り上げたのが、ゴジラ映画である。
「ランドマーク」と継承される建築物が現実に立脚すれば、特撮の箱庭に再現される。即ちそれはレンズ向こうの世界にて破壊の確約を意味する。特撮とは建造と粉砕ビルド&スクラップに他ならない。物がなければ壊すことは出来ず、カタルシスを語れない。
 塵土からの復興スクラップ&ビルドを逆行する行為自体が記憶を誘発される儀式である。特撮とは破壊することで逆説的に物語を創り出す。
 縮尺の弾みをつける為に建造された小さな建築群は、怪獣という怒濤の神を身に纏いし役者が粉砕し、特効による火薬と火災が爆砕がレンズ向こうの祟り神を加護する。炎。爆炎。燃焼ガス。黒煙。白煙。破壊による鎮魂と、訓戒を呈した娯楽。
 私はゴジラ作品の中で「モスラ」が好きだ。何故ならば巨大な昆虫が変態し成長する過程はドラマの根幹に流れるものであり、そして何より繭、昭和のモスラは東京タワーに、平成のモスラは国会議事堂にコクーンを仮託し、描く映像は建設的な生命の共栄が見えるが故。
☆まあでも、ぶっ壊されていくんだけどさ。だってゴジラだから。

 数々の異形の巨像、怪獣達が造られ、そして消えていく。シリーズ作品が内包する宿痾、建造と破壊の連続をマンネリが上書きしていった。1954年から1975年にかけて造られてきたゴジラは製作の中断を迎える。
 其れから約10年後、『ゴジラ(1984)』が新たに造られた。昭和最後のゴジラ映画。初代ゴジラに習い、ゴジラというディザースターのスターが私の映画館鑑賞の祖である。
 劇中に現れる突出したテックノロージのビジュアライズの飛行物、スーパーXが幼少の我が心を鷲掴みに。建築物を遮蔽物に、ゴジラが放つ熱い熱い青い炎に耐え忍ぶスーパーXに惹かれた。物語は米ソ冷戦真っ只中、東京に現れたゴジラ。東西の核分裂愛好家指導者による滅却処理に巻き込まれる、水爆生まれの怪獣と米ソの「超頭脳が生み出した怪力の馬鹿ニュークリアパワー!」の板挟みに巻き込まれる日本。大迷惑である。幼き頃の私には話の筋は判らなかったが、そのビジュアル強度は素直に伝わっていた。
 ゴジラを田舎者扱いする台詞の奥底に、「バブルでうかれてんじゃねえぞボケ」現場主義の苛立ちが臭い伝わり、災いの元であるゴジラに心情を傾けるというのはその大きさ、縮尺が持つ「パワー」であり、どの文化圏でも巨像を人が造ることは共通致します。

 年号は「平成」に変わり、再びゴジラ蘇る。「平成ゴジラシリーズ」と呼ばれる作品群を輩出していった。
 抜去し取り上げるのは平成ゴジラシリーズの一作目「ゴジラ vs ビオランテ」(1989年) G細胞というプロトコルを薔薇に移植する。その発想と動機は外連に満ちたいるが伊達は曲がり通る。グロさと美しさが両立するビオランテと、憤怒の祟り神が横並ぶ画に小学生の我輩は「綺麗だ……」と感涙する。
 世紀末に平成ゴジラは終わりを告げ、1999年に「ミレニアムゴジラ』が造られていった。
 私はその間何をして過ごしていたかといえば、土曜を抜去し取り上げたい。昼から友人宅に伺い、念の為に沢庵色のハードコア、ファミリーコンピューター『オバケのQ太郎 ワンワンパニック』に果敢に挑む。情に太そうな上唇と下唇の布団被りの白いゴーストは、情に太ければ食にも太く、空中浮遊する渦を巻く飴や、握り飯を喰らう大食漢。ケツに喰らいつかんとする屋根上の番犬や、野良のワン公に怯え、幽道を浮遊する魂をコントローラーでふんわりと飛ばしたものだ。
「ガウガウ砲?」 空間に浮かぶ餓鬼道の徒を成仏させるクリアーは織田無道でも判るめえっつうことで、小学生には難攻不落の代物。これを諦め二人で遊べる『魂斗羅』か「これだぜ。これ!」名作『ダブル・ドラゴン』に熱狂した。モーニングスターのようなヌンチャクを敵から強奪し、ドット絵のスラムで暴れ倒し、ひとしきり満足するとそろそろ夕方5時。さすればTV『5時SATマガジン』を鑑賞。
 画面向こうに映る大竹まことは司会者であり破壊者である。生放送という緊張下が齎す突然の極彩色のスリルは、仏門に帰依する前の修羅のようだった。あのように暴れることで、素人参加型の番組に澱む流れを暴れることで整えるのは一つのカードだっのであろう。今現在ではとても無理であろうが、その当時を体験した私は差し詰めサブカルチャーの初等教育を積んだということだろうか。
 そんな大竹氏が平成ゴジラ作品『ゴジラ vs モスラ』(1992年)に出演していたとは露程に知らず、本件執筆にあたり資料を調る最中知り、喫驚を喰らう。偶然というのは恐ろしい。時間を超え、予期しない形で出会わさすものだ。
 その間ゴジラは次第次第にCGIを取り込んでいった。VFXに伴うハードウェア、ソフトウェア、それを操作する技師も黎明期の時代。劇中VFXが使われる場面は端的にいえば冗長が冗談化したものだった。当時のVFXとフィルム光学合成であれば、優は光学合成にあるであろう。それは未だに「ウルトラマン」等の過去の名作が見れることからもいえる。技師の職人技が作品にマジックを齎せるのだ。だがその黎明期を通過しなければ、今日の日本映画VFXには繋がらない。
 因みにVFXは一生涯過渡期であるかと思う。それに変わるものがない限り。ハードウェアとソフトウェアの刷新が繰り広がり続く先端技術の宿命である。
 ゴジラ作品はシリーズ化する中で、安易な諧謔や可愛らしさを取り入れ、ゴジラから畏怖が失調していった。当時のVFX映像が審美に耐えれず、諧謔による回避を測ったということもあるかもしれず、昭和を案になぞっただけではない可能性もあることを担保し考えたい。が、しかし「ゴジラの本懐」に考えを立脚し、立ち戻りたい。
 それは、ゴジラとは畏れであり、気は優しくて力持ちではない。怒髪による破壊を齎す巨大生物であり、そのコントラストに箱庭があるが、ミニチュアはデフォルメではない。視点を変えれば箱庭に特化したがため、それ以外の資源の捻出に苦労したということもあったのだろうか。
 しかし失敗を恐れ、挑戦しなければ成功はない。マンネリの魔の手が走りやって来てしまう。これは的を得た批評を遠ざけていては成長がないのと同じである。
 再びゴジラは沈黙した。

 その後、流暢な発音の「ガッジラ」が海向こうで公開される。ハリウッド版『GODZILLA』(2014年)。
「これが何故日本で造られないのか!」 私は右前腕と拳を握り込め、ハンマーブローを机上に振り下ろす。しかし、遅計だ。記憶が演出を優先し、加工されている。ハリウッド版モンスターパニックへの嫉妬と憤怒はそこから遡る作品を目にし、マグマのように沸いていたのを思い出せ。

「そ……それは」

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