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自動二輪 最適化案 飛翔のライセンス 後輪編

写真は「新機軸 (New Standerd)」

 人類の歴史とは道具を生み出し、移動し続けてきたことである。時折誕生する賢い者がまだこの世に存在しない何かを造り、その上に文明は積み上がり、交雑と交易を繰り返すことで発展を遂げ、昨今の技術改革結節点は凄まじい早さで進み、火を手に洞窟に壁画を描いていた時代と、現在とで一日の時間がほぼ変わらないということは、何かの悪い冗談であろう。
☆要するに、ぼうぼうに毛が生えていた時代も一年は365日だったんだって。嘘でしょ?

『キューバ危機』  1961年アメリカ。隣国キューバにソ連からの核兵器が配備され、米ソは核戦争寸前までに近づいた。米ソ両首領の会談により核戦争は回避された。同年ユタ州の電話中継基地が何者かにより爆破され、回線が一時使用停止となる。不測の事態への通信脆弱性から米国防省はランド研究所に依頼し、高等研究局(ARPAアーパ)の下に誕生したのが、そう、インターネットである。
 1989年インターネット商業利用の許可が降りた。つまり日頃使っているインターネットとは、いうなれば軍放出品のようなものである。インターネットを経由し、アーミールックのウェアを購入するというのは、3Dプリンターで造られた、クラシックカーのレプリカパーツを買うことと似ている。
 コンピューターサイエンスは、知的好奇心旺盛な海向こうの友達たちオタクによって育まれ、その過程に誕生したインターネットとは、血統書付きのギークカルチャーであり、趣味や嗜好が明瞭になっている者との相性が非常に良く、育ちの経緯からして「当然」というこの鉤括弧を、皆様は鮸膠にべも無い抑揚でお読みください。
☆「ツンデレ」など、独特の語感と語群を生み出すのも世界観ゆえか。それは敵味方識別信号と似た意味としても機能している。

 それまでのオタクとは、異端であり、異常者として社会から丁重に扱われ、学校内ではヤンキーの生贄になりがちで、着用衣類はびっくりする程に無頓着。ハレの日には、びっくりする程にデザインを度外視した強度の作品愛に身を纏い、太陽光を浴びると死ぬと伝承されてきた。ところがどっこい、今ではヤンキーもオタクカルチャーにどっぷりで、オタクはコミックマーケットの炎天下に列をなしても溶けず、ハレの日ゆえ、服装にその強弱が現れるという処に帰着している。
 サブカルチャーの一部であったオタクカルチャーはほぼ主軸となり、デカい集いの後は紙袋をぷんぶくに膨張させ、紙袋と反比例する布面積少ないコスプレイヤーを、各々の自慢のバズーカーカメラマンで取り囲むなど、分散型情報網インターネットの発展は愛好の同士を強く結びつけ、経済活動を活性化し、同族嫌悪故のドッグファイトをまま引き起こす。
 悪い意味での破壊力は、人々を地下バンカーに押し込め、世界を停滞させる。
 良い意味で頭のおかしな想像力は、世界を飛翔させる。その波は国内という枠を超え、そのオリジナルは錦に輝き、世界市場に達した。手弁当で造られた薄い本は著作権をギリギリに破り倒し、作者を複雑な思いにさせるので、あんまり派手に儲けると強く叱られる。いや、叱られろ。ふざけんな。

 インターネットとは、これはやはり凄まじい発明だと痛感する。ご高齢の方が噛まれる四次元のガムならぬ、ポケットから出される例の扉。眼鏡の半ズボンが開ける先には見知らぬ世界と、おさげ女子の入浴中という、プライバーシーのガヴァ開け。あれこそがインターネットの正体である。因みに我々は「縦」「横」「奥行き」「時間」と、四次元世界に思考を置き暮らしている。これ以下の次元では空間の一部か時間を失うため停滞し、これ以上の次元では頭の中が追いつかないため、本稿では割愛する。喝。
 インターネット。その本質とは、物理的な距離をデータ変換し、圧縮したことである。100kmの距離を実際に移動するには、速度に応じた相応の時間がかかるが、その「時間」を圧縮し、限りなく同時通信を可能とし、その結果「身近」という縮尺は地球規模に狭まった。
 光の速度に物体を加速することは、物語と科学の世界に留められているが、考えてみて欲しい。光ケーブルというものが当然のように存在することを。データは既に高速なのだ。我々はそのインターネットに拘束され、社会、世界を構築し始め、適応しつつあるかは……疑問である。
 距離の圧縮が人との距離感を狂わせ、圧縮過程に他者同一視を含みつつあることに自覚はあろうか? 危ないものや痛みを人から遠のけたところ、餓鬼道まっしぐらな魑魅魍魎がインターネット上に跋扈し、痛み知れの米国ストリート訳「お前そろそろぶっ飛ばされた方がいいぞ」とマイク・タイソンにと言わしさせた程だ。

「社会の分断」と言われて久しいが、過去から連綿と世代間は断絶し続けられてきた。インターネットは同好の士を結びつけるだけでなく、あんなことやそんなことが重なり、易怒を信条に変換した者をも結びつけ、自分達と違う相手を排外することで結託と結党を興し、拘束通信は集団化を呼び込み、民主主義を守るために誕生したインターネットは、民主主義を挫くものに傾きつつある。
「自分の半径数メートルで物事を語れ」といわれてきたが、現在の半径数メートルは地球規模だ。
 刮目せよ。距離を。100kmの距離を移動するには、距離に応じて時間がかかるという物理の原則を。自己と他者は違うという自明を。現実は時間。距離。他人が存在することは変わらず揺るぎない。喝。
 一つの個体が集合のデータとなった場合、それは生物の個体ではなく、クローンであり、そう「人工知能」である。人が育っていなければスマートな電卓野郎AIに飼い殺され、気付けば思考することをも忘れ、「家畜が自らを家畜だと理解出来るだろうか」
 今後高解像度の嘘八百が、選挙の数ヶ月前などの何かの頚城に向け簡易に造られ、簡易にばらまかれるだろう。これまでの稚拙な映像や、稚拙な脚本が電卓野郎によりそれっぽく整えられ、バカしか騙されなかった内容が、バカ以外も騙されるということになる。手軽にデータだけを見続けるということは、手軽に影響の行使が可能ということである。騙されないのではなく、基本的に騙されるであろうという前置きと、それを受けても分別する身体に根付いた思考が必要だ。その考えが育ってなければ、容易に食い物にされていくだけであろう。
 道具により社会が変わってしまうのも、これまでの人類の系譜である。しかしこれは、道具により社会は変えられるということでもある。
 若者に向け伝えたいことは、地球規模に達した身近な半径だけで語られる物語だけでなく、データー上の強い結託だけではなく、違う年代、違う土地に暮らす人々との物理的な「接触」や「すれ違い」の重要性を説いたい。同行の同志エコーチエンバーは、ある分野について詳しくなるが、価値の違う者との理解、歩み寄りは閉ざされ、それでは分断がいっそうと進む。人工知能による脚本と映像がそこに楔を打つことは、より容易く。では同行の同志であれば良いかというと……強度の愛は憎悪に変わり、ドックファイトがまま引き起こされる。
 そこで私から自動二輪車を勧めたい。物理現実の法則を味わえるバイクと、違う土地に暮らす現実に生きている人との接触、尚且つ経済的であり、そして、判断力を必要とする自動車の運転は人を育てる。
 前回は過去の自動二輪車に纏わるステレオタイプな価値観の背景を書いてきた。今回は現在の日本の免許制度と、世界に目を向け、製品の仕様共通化が可能となるよう最適化し、若者の移動を促し、同時に経済の循環も可能とする案を呈上していく。魅力ある製品を作れるかどうかはメーカーの責務だが、自動二輪車の環境構築は社会の責任である。社会が次の世代を見ていれば、次の世代も次の世代を見るだろう。これまでの因習に拘泥するならば結果は出ている。
 自罰的な論考で編まれた、自国悲観の近未来フィクションでは済まなくなるだろう。まだ私は喫水線は復元可能な線にあると思っている。復元不能なまでに傾けば、後は船からどう安全に脱出するかが課題になり、その後はどう漂流から救われるかということに尻窄む筈だ。物を買えないのと、買わないのでは、似ているがその先は全く違う。
 併せて一過性の流行りで終らせないための環境構築を目指したい。過去のブーム、その後には結局不自由が残ったという轍を踏みたくはない。特定の車種や状況が盛り上がったとしても、それは植物のある品種を語るようなことである。私は木ではなく山林と広がる裾野に着目している。同じことを繰り返すのは外を見ていない者語りであろう。
 今なら判る。歴代の人々が「若者に旅をさせろ」と、伝え続けてきたことが。

・自動二輪車の免許書制度改革案
 まず日本、米国、欧州の自動二輪車免許区分を記載する。
 日本) 「原付」「小型」「普通」「大型」の4段階。
 米国) 「M2(150cc以下)」と「M1(無制限)」の2段階。16歳から取得可能。
 欧州) 「AM」「A1」「A2」「A」の4段階。
 自動車免許証にお国柄が如実に現れ、米国の免許制度はシンプル明瞭。それに比べると欧州は論理の下に構築された造り。個人的には米国の仕組みを導入して欲しいが、今の日本でこの案が通ることはまずないであろう。そこで比欧州の免許制度を参考に改革案を考えた。複数の国を跨ぎ連帯する欧州。文化が異なる者同士、それ故納得出来る論理が必要だったのだろう。日本にて自動二輪車を快く思わない相手を違う文化だと捉えれば、これは参考になるはずだ。
 次に自動二輪の主たる市場での日本4メーカーラインアップを調査した。
 東南アジアは「インドネシア」北米から「米国」欧州は「フランス」「英国」 これら地域で販売されている製品を検討。
 兼ねてから懸案している日本独自の指向けは、社会全体から見て果たして最適なのか。世界と共通化出来る余地があるのではないかと、免許制度と製品の世界展開を見据えた案を練り上げた。

・日本の自動二輪車免許制度を4から3へ。
「松」「竹」「梅」の三段階に変更。免許証背面に梅竹松の吉祥を描き寿ことほぐ。外国受けもきっといい。ただの冗談ではなくこれには理あり。次なる人材育成を射程に入れ、世界的戦略を込め、経済活動あり。日本の再活性を自動二輪車からアプローチすることを企図してある。

1)「梅」 原付免許の廃止。小型自動二輪免許一本化案
 免許取得可能年齢:16歳以上
 備考:原付免許と小型自動二輪を一本化し、最大排気量を150cc以下とする。普通自動車免許証に付帯。

 有名人が原付に乗り、旅に出る。それがTV番組として成り立つことの理由を考えたことがあるだろうか。快適な旅ではこれは成り立たないのだ。不便の中で巻き起こる珍事を笑うことで、番組として成り立っている。即ち我々は原付が過酷であることを認識し、見知った有名人の苦闘を娯楽として感受しているのだ。
 では次に考えてみてほしい。車を運転中、前走する原付を目にし、笑みは浮かぶだろうか?
 原動機付き自転車の法を整えた頃の日本は戦後直後。道路は未舗がざらで、土埃は舞い上がり、前走する車両の土煙で視界を奪われ、雨降ればぬかるみ、凸凹する路面を、自転車の虚弱なフレームに原動機を付けた車両で時速30km/h以上を出せば、振動で尾骶骨は粉砕骨折となるだろう。また他自動車の性能も今とは比べ物にならない程かわいいもので、二段階右折も然り、当時の状況に合わせた法整備である。
 年月日は経ち、北海道から沖縄まで舗装道路が整えられた今現在とそぐわなくなっている。では変えよう。
 もう一つ。小型自動二輪免許について。高燃費。ファミリーバイク特約など、車両とその周辺環境は経済的な恩恵で包まれている。だがしかし、小型二輪免許だけを取得した者と私は出会ったことがない。あ、唯一居た。郵便局勤務が決まった友人だ。実情は普通自動二輪以上の免許を取得し、経済的な理由から125cc以下の車両を購入される方が多いそうだ。何故ならば、実用的な加速で他交通車両をリード出来、燃費もいい。任意保険料も自動車の保険のオプションで済むとくれば、実利を取るおっさん達が見逃すわけはない。彼らがまだ若かった頃起きたバイクブーム。当時普通自動二輪の免許を取得していたということもあり、小型自動二輪車が選ばれている。同時に欧州でこの排気量帯が活気付いている。

 ここで一つ合理的なことを考えたい。原付では心許ない。しかし、小型自動二輪の免許を態々取るかといえば……。では、原付と小型自動二輪車の運転免許を一本化してはどうか。経済的な恩恵で包摂し、現実的な交通の流れたり得る自動二輪車の門戸を、若者からご高齢の方までに開くことで、社会全体の恩恵は大きい。そこに更に排気量上限を150ccとする案を呈上する。その理由背景は複数あり、順を追い説明していきたい。
 まず、小排気量の市場が分厚い地といえば東南アジアだ。インドネシアでの4大メーカーのラインアップを見てみると、150cc以下が人気のようだ。次に欧州を見てみると125ccのラインアップから始まる。そこには欧州の自動二輪車の免許区分が関わっている。
「A1」ライセンス。16歳から取得可能。125cc以下。出力16kw(15ps)以下。
 もう一度振り返ってみたい。東南アジアでは150ccまでの車両が盛況だ。欧州では125ccが活気付いている。その差僅か25cc……。なんとも中途半端な差。これは一本化出来るのではないか?
 そこで日本から若いライダーのエントリーモデルとして勧められるような、国際共通の環境を提案したい。いや、そのチャンスが今の日本にはある。
 東南アジアでは150ccはもう常態化している。説得すべきは日本と欧州だ。ではどう説得をかけれるかと考えた。まずは大きい市場を持つ欧州。環境規制『ユーロ5』の次を見据えることで、話が出来るのではないだろうか。
 125ccから150ccの排気量増加で最高出力が何十馬力も向上することなどは、ない。引っ張る力、トルクを少し厚くさせるところにある。この排気量帯に使われるエンジンは単気筒故、トルクを太くすることに長け、欧州も日本も山間部は多く、登坂力の後押しも出来る。年々環境適応のハードルは厳しくなっているが、150ccへと排気量を少し上積みすることで、加速時の不燃焼ガス排出は幾許か下げることが出来るだろう。
「A1」ラインセンスの出力制限11kwのままとするか、東南アジアで展開される車両を鑑み、法改正するかは欧州が決めることである。しかし、排気量の25ccの上積みくらいは、交渉の余地があるのではないか。同拝領であれば指向けごとの出力制御は、現在の技術ならばさほど難しくはない。
 次に日本に向けて説きた。私は過去に街を跨ぎ50ccで物を届けてきたが、バイパス道路の上り坂は地獄の登坂であった。アクセルを全開にしても加速せず、後方から駆け上ってくる鉄の塊が苛立ち迫り来る。なかんずく前走が遅いと凶暴化する運転者は道路上に現れるもので、事故に巻き込まれることの軽減も射程に込めてある。
 これからの若者にこれを体験させたいかといえば、私にはその理由が思いつかない。個人的な地獄巡りを不必要に他者に求める趣味はなく、それよりも全体最適化の方が巡り巡って各福を得れると考えている。若さ故50ccで遠い地まで足を運ぶこともあるだろうが、歳を重ねそれをやりたいかといえば、全くもって嫌である。
 一つの車両が東南アジアから欧州と日本へ展開が可能となれば、環境適応及び諸々に伴う開発費を「日本」「東南アジア」「欧州」と、母数を大きく取れる。それは即ち価格にも表れ、需要があればメーカーも潤い、経済が回れば雇用もある。元から自動二輪メーカーは世界を相手に商売している。それを日本で足枷とする必要も、余裕も、もうない。
 125cmの物差しよりも、150cmの物差しの方が物事を図る余裕があることを想像するのは容易いかと思う。各国で取り決め、スペック上限を定めておけば、開発生産する方も楽だろう。なんでも口を開け待つのではなく、日本から後押しできるように国内制度を見直し、間接的に後援してはどうだろうか。
 法とはそれまでの制定を維持するために働く。でなければ都合よく変えられてしまい、社会は滅茶苦茶になる。しかし、それでは適用できないこともあるが、維持されがちなものだ。それは因習である。
 態々ややこしい見本独自の制限をかけるよりも、メーカーに任せた方が市場競争に基づき、適切な処に落ち着く。同時に欧州市場を見据え、その先の環境規制を見た戦略ある制度であれば、地球に厳し目なガスも減り、メーカーもユーザーも環境適応検査員も、地球もニッコリ。無駄な複雑さは迷惑以外のなにものにもならないものだ。
 そこで私からの案がございます。『かめ』と『うさぎ』のアイコン化した走行モード実装を提案いたします。これは農業従事者の方ならば、馴染みあることでしょう。
『かめ』は高燃費と雨天時に向けたもので、長寿だ米寿だで縁起もいい。初動は常時『かめ』モードとし、ご高齢ライダーが設定変更を忘れることを予防する。
『うさぎ』は通常の走行モードとして用意。ご高齢専用に背品を拵えることはコスト高となり、形式上の「原付免許(50cc)」がなくなっただけでは本末転倒でございます。走行モードが予期せぬ加速を防ぎ、尚且つ燃費や天候に合致。モード切り替えで十分な走行性能を発揮出来れば、訴求する年代層を広く構えることが可能。
 新機能を薄利多売の商品に求めればメーカー泣かせとなるが、走行モードの変更は上位車種にて実装展開確立済み。既にある機能は、諸々の調整で採用可能となることが多く、これは地球ホカホカガス軽減を目的に作られてきた「ECU」という部品と「インジェクション」という燃料噴射装置があったからこそ可能な案であり、やはり失敗だろうが、成功だろうが、試し続ける継続は力となるとまじまじと思う次第であります。
「パワー!」 力技だけでは人は変わりません。納得できる論理があってこそ、伝わるのではないかと私は信じております。
☆当然ながら「全て150ccにしなくてはならない」と、説いているわけでははございません。

 125ccから150ccに上限を構えることで浮かぶ問題は、高速道路の走行であろうかと思います。このことについては「小型自動二輪車は高速道路の走行禁止」を適用させればよいと考えている。というのも、250cc単気筒オフロード車にて高速道路通勤を行っていた経験も持つ著者だからいえますが、「凄い疲れる。慣れても」 
 150ccの排気量ではそれ以上になることは自明。100km/h巡航時にはエンジン回転数はパーピーに似た悲鳴に至り、80km/h巡航でもしんどいのではないか。そもそも原付が現在の交通の流れにそぐわないことを問題視し、小型自動二輪免許との一本化と、150ccエンジンの世界展開による合理性を取り入れた案である。
 では既に126cc〜150ccの自動二輪車の所有者をどうするか? これについての解決策は書類申請により小型自動二輪車に登録変更を可能とすればよいだけではないか。高速道路走行可能を取るか、それもと保険など維持費を安くすることの選択をオーナーに任せれば万事解決可能。
 私個人はちっこい排気量で第二東名高速道路なんて絶対走りたくない。自分も怖いし、周りも迷惑だもん。
 
 16歳から乗れる車両に出力制限と、排気量制限を課し、実用的な性能であることは、それ以外の者にも届く商品となる。これは理にかなっている。欧州から学び、東南アジアで盛況なエンジンを横展開出来れば、ユーザーもメーカーも嬉しい。
 無謀な運転をご心配のご両親の皆様はご残心ください。150ccの市販モデルの走行性能は知れています。無謀な運転は自転車に乗っていても、やる者はやります。

 メーカーに願いたいのは、16歳が学業に支障をきたさない程度のアルバイトで、2.5年で返済可能な車両価格にしておいて欲しい。通信費や端末の機種代など、何かと金がかかる頃。同時に金のない年代だと思う故。アルバイトを通し、異なる年代と出会っておくことは旅のようなものだ。買いたいものがあり、それが遠くへ行くことも出来るというのは本件の目的、人材育成の基本軸にも沿う。
 楽しいですよ。バイクって。自転車に乗り始めた頃を思い出すんじゃないかな。
☆若い子らの消費が携帯端末と、通信量サブスクリクションに落ちているが、これで日本の産業が回るのか疑問である。

 次に普通自動車免許に、小型自動二輪車を付帯させる背景を書き示したい。
 繰り返し述べてきたが、原付は現在の交通のが流れとそぐわない。また、小型自動二輪車の免許だけを取得する者と私は出会ったことがない。では普通自動車免許に付帯する原付の代わりに、小型自動二輪免許を付帯させよう。これは過去の名残をただ踏襲したという安直な案ではない。その先には世代間を繋ぐ車両と、経済の循環を担う謂わば土づくりのようなことを念頭に置いてある。
 小型自動二輪車。実用的な加速。車両価格は安い。高燃費。ファミリーバイク特約。他車両と道路交通法は共通。それ故、自動車免許を取得時に学んだことをそのまま活かせる。
 そのことで社会がどう変わるかといえば、例えば親子感で車両を共有出来、任意保険はファミリーバイク特約で済めばコストを抑えれる。若者の任意保険料はどうしても高くなるものだが、150ccまでをファミリーバイク特約の範囲に込めれば軽減出来る。学費だ、塾だと何かと金がかかるが、景気については冷えて固まっている。家計を後ろから支え、同時に消費を促し、世代間の共有も射程に込める。
 経済的に余裕が出るということは、別の消費へ回す余地が生まれるということだ。
「自動車と競合する」と、考える方には早計と伝えたい。日常では雨とは濡れるものであるが、自動二輪車での雨はたれるものに変わる。速度に応じ、雨粒は無数の刺突となりライダーを打つ。雨は濡れる次に痛いと知るのも二輪車故。冬の雨なんて最悪である。その点車はなんと快適か。雨風防ぎ荷物も詰める。人は二人以上乗れる。バイクに慣れると2シータースポーツカーに凄まじい積載能力を見出し始まり「トランクにゴルフバック一つが入る!」つまり、引っ越せる。何でも入る。四次元のあれに見える。物事を指し図る尺度は片側だけではなく、両側を伸ばすと考え方を多角的に出来るのだ。つまりお勧め。
「よって2シータースポーツカーは快適! だから買う!」この論考で嫁に説得かかるお父さんを私は応援したい。たぶん無理だろう。頑張れ。バイクもあるぞ。
 親子間で車両を共有出来ることでお父さんにも、若いライダーにも恩恵は大きい。オイル交換は親父の財布で済ませて、浮いたお金でちゃんとしたヘルメットを買おう。素手ってバカかお前。グローブ買え。保険にも加入しよう。
 既に普通自動車免許をお持ちの方の中に、突然最大150ccまでのバイクに乗れることに不安を抱くこともあるかと思います。ご安心ください。案を用意しております。自動車学校にて6〜10回程の実技講習を受け、免許に付帯する原付を小型自動二輪にアップグレードすることで、乗車可能としてはどうか。そもそも自動車学校で受けた原付の講習。あれで街中を乗れるのならば、150ccの方が安全に運転出来ましょう。受講料は価格は¥10,000以下で済むようにして頂きたい。
 日本の普通自動車免許所持者に梅の種を蒔き、興味あがれば晴れて「梅」ライダーを開花させる。
 また、この150ccという排気量は米国の「M2」ライセス内の枠に収まる。更に次の「竹」案にもつながっていく。

2)「竹」 普通自動二輪免許案
 免許取得可能年齢:19歳以上
 備考:最大覇気量を500ccへ。要車検排気量を300ccへ。

 19歳という設定に置いた論拠は、「梅」案にて呈上した車両の2.5年ローンは完遂し、3年も所有していれば普通自動二輪車の免許取得に進むか、それとも車に向かうか、全く違うことに向かうか判断するのに十分な時間と、運転経験を積めるはずだ。その年齢が19歳という設定に辿り着いた。
 ほぼ義務教育と化した高等学校卒業後の生活にも慣れた頃合いにもなれば、それまで以上の行動半径になるはずだ。そこにこの合わせ調整してある。
 300cc以上から要車検とした理由は、ここにも次世代を旅に送る意図を込めてある。250ccの排気量で高速道路100km/h巡行はどうしてもエンジン回転数は高くなり、そこに50ccではあるが排気量の厚みを増し、ライダーの負担、エンジン負担を幾ばくか下げることにある。
 次に乗車可能な車両を500ccまでに拡大する理由について述べたい。
 エンジンの世界展開という戦略を軸に構成。調査した結果インドネシアは150ccまでが盛んであり、欧州は125ccが若者の自動二輪車入り口となっている。米国はどうかというと300ccからという塩梅。その次に500ccが用意され、これは欧州も共通であった。
☆125ccを用意されたのが欧州。ないのが米国。それ以降は共通。

 米国、欧州の商品展開を共通化し、若者にも届くように販売価格を下げるとろこにある。400ccと500ccがラインアップされていても、日本の現在の免許制度は消費意欲は削がれる。大型自動二輪車の免許を取得し、500ccを選ぶ人はまず居ない。小型自動二輪免許だけを取得する者の方がまだ多い。(郵政外務従事者が居るため)
 日本国内の免許制度がボトルネックとなり、小ロット高コスト化する状況を見直し、国内外でも成り立つ仕組みにしておきたい。それは経済を潤し、雇用にも繋がる。尚且つ人を、次世代の育成にも繋がっていく。
 私は現在の16歳で400cc以下までの自動二輪車に乗ることが出来る免許制度は、若者の安全を考慮しているのか、そうではないのか困惑する。

「梅」案で俎上した150ccの横展開であるが、これが「竹」案にも活きてくる。
 300cc単気筒エンジンは既に製品販売されている。150cc x 2=300cc 二気筒化するのにも都合良く、100ccを三つ並べれば三気筒と、素直な設定に落とし込める。
 次に500ccについて考えてみたい。250ccを二気筒で500ccに収まる。125ccを四気筒で500ccに収まる。これまでのエンジン開発を活かせる。
 北米欧州に合わせた後のことを考えてみた。例えば300ccは三気筒にし、500ccは四気筒と、棲み別けが明瞭になり、製品の特色を色濃く打ち出せれることも可能。
 日本では車検不要の250ccと、もう一つ400ccが普通自動二輪車の主な製品となっているが、日本にしかほぼない排気量帯である。250ccと300ccの差は小さく、400ccと500ccも然り。要は50cc 250cc 400ccという日本独特の排気量帯を、世界戦略を見据え合理性のある内容に改案した。
 東南アジアから150ccを日本と欧州へ展開し、米国から300ccを日本と東南アジアへ展開。アジア。北米。欧州と、世界共通化とすることでメーカーの負担は減り、販売価格にも反映され各々にっこりの仕上がりに。
 東南アジアの道路事情は戦後の日本と似たものらしく、成長著しい今後を見込める大きな市場である。経済の活性化と道路インフラ整備はセットだ。物流が整えられていくのは当然の流れ。オフロード車から道路整備に伴いオンロード車の需要は伸びる筈。300ccや500ccが訴求していくのではないだろうか。高度経済成長期前の日本に、インターネット網が完備されているというように想像している。
☆motogpの開催地が新たに入ることとは、その地域の二輪市場が活気付いているということでもある。

 インターネット網発達前の方法を続け、ガラパゴス化し、後退していったことは枚挙にいとまがない。国内のボトルネックを見直し、国内外に合わせ最適化し、乗り越えていきたい。
 個人的には600ccまでを普通自動二輪車として扱って欲しいのだが、個人的な願望だけでは世の中は動かない。1000ccの半分、50ccという判りやすさも汲み、提案いたしました。

3)「松」 大型自動二輪免許案
 免許取得可能年齢:21歳以上。「梅」か「竹」免許での2年以上のライディング経験を要する。
 備考:特になし
『限定解除』 一発本番合格率1%。超難関進学校向け塾の広告のようだが、激烈に厳しいこの門戸が開かれたのは、「大型バイクの参入障壁となっている」と訴えた海外バイクメーカーからの声だった。1996年の法改正により、自動車学校にて『大型自動二輪免許』免許取得が可能となる。
「外圧には応えるが、中からの声には応じないのか」とするのは早計。元々は自動二輪車の免許に制限などなかった。暴走族が問題視され、取り締まりが強化され、免許制度が厳格化。こういうことは形を変え、よくある。文句をいうのならば、お上に矛先を向ける前に、何があったかを知ったうえで考えて頂きたい。
 現在の大型自動二輪免許は18歳から取得可能となっているが、最初の一台が600ccや1000ccというのはどうかと思う。バイクの性能は凄いが、ライダーがそれに追いついていないというのは、怖い。
 松竹梅と三段階に別けることで、薫陶を積む環境を構築し、その上に無制限の頂きに挑んで欲しい。その間に満足できれば、それでもよいという厚みを設けてある。また、19歳で購入した車両を乗り換えることで、無理なく次につながる意図も込め、設計してあります。
「ここから以降は御好きな人はどうぞ」という世界ですので、欲しい方はステップアップ式にしておいても必ず来ます。利益率が見込める製品が多く、ライダーとメーカーは相思相愛の関係になり、あまり周囲がやいのやいのと口を挟むのは野暮。
 21歳。大学3年性。「梅」「竹」にて薫育を経て育ったバイク愛好家バカは、新卒内定が出た翌日バイク屋に駆け込み、残りの大学生活はバイクと共に……。
「ああ、羨ましい。将来もあり、時間もあり、免許もバイクもある。こっちは免許も取ったし、バイクも買ったが旅に行く時間がない。だから学生時代を謳歌出来るように年齢が18歳の方がいい」というのは、視座と解決策が間違っている。
 仕事があり、旅に行く余裕もお金もない。それ故、他者に嫉妬し、それで済ますようなことが一番の問題だ。
 何故若者を旅に出し、それには自動二輪車が最適なのかという根本は、こうした視野を育めるようにと執筆入魂し、「2シータースポーツカーに積載量を感じる」というのはただの冗談ではない。幅を持たせることでそれまでの当然への捉え方が変えられるように、だから旅に出るんです。日常とは違うものを見に行くために。自分の半径数メートルは地球規模にまで狭まったが、圧縮された距離は身体のない考え故、身幅を知るのにも旅することが必要なのです。何事もまずは観察から生まれる。
 物を運転するというのは、即ち自身を運転するということでもあり、蛮行と挑戦は違う。自動二輪車は危険であるが、だからこそ学ぶことは多く、そして楽しい。若者に勧めるべき物が日本にある。経済的だ。では推そう。現在の環境が問題だ。では見直そう。
 免許制度変更前に駆け込み受講者も増えるでしょうが、だから何だ。その先を見据えております。

 検案してきたことがどうにか形にでき、感慨深く意義あるものでした。道のりを考えるのは骨が折れましたが、これが次の世代に繋がればと思っております。それではこれにて終えたい。
☆まあだだよ。

 次回予告。
「カードガ入ッテマセン」 ETCのインジケーターは真っ赤に染まる機械音。
「おい、なんだよこれ……ボリバーだろ。警察呼べよ」 上がらない気持ちとゲート。
次回予告『ヘルゲートETC。地獄の門が引かられる。高速道路まとめてドン』 にご期待ください。

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